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一部の検索機能から直接このホームページを表示させると、文章中の写真が表示されない事があります。URLが、 http://atc3m.sakura.ne.jp/004ichinotani.html であることを確認してください。 http://atc3m.sakura.ne.jp/004ichinitani/ になっている場合は、最終部の"/"を削除し、".html"を追加してください。 このホームページは、源平一の谷の合戦の正しい姿についての考察と、ゆかりの場所の観光案内です。 平知盛、平忠度、平盛俊の陣の位置を検討し、それらの行動が矛盾なく連動するストーリーを考えました。合戦のストーリー(私の推察・考察を含む)を黒文字で、観光案内と私がそう考える理由・考察を青文字で表示します。
敵が来るとは思わなった崖から源氏軍が現れて、不意を突かれ、海が迫っており逃げ場を失い、平家は負けた。 結構、ポピュラーな一の谷の合戦のイメージですが、間違いだらけです。 このイメージの大元は、平家物語と考えられますが、平家物語は、歴史的事実を表した記録ではありません。特に、”どこで?”という情報が欠如しています。聴衆は主として”都の人”で、多分、講談、歌舞伎の台本に近いものだと思います。しかし、それを承知で、平家物語をベースにして、一の谷の合戦の全体像を考えてみました。 地名は全て現在の地名で表現しました。 前半は源義経、後半は平知盛になったつもりで、一の谷近辺を旅している気持ちで読んでください。 (2)清盛亡き後、木曽義仲(源頼朝・義経の従兄弟)が挙兵し、福原京を焼き払い、平家は西国へ落ち延びます。 (3)源頼朝が挙兵し、木曽義仲を討ちます。 (4)勢力を整え直した平家が、福原京に戻り、船団で大和田泊(おおわだのとまり)(現・和田岬とハーバーランドの間)に集結します。ここが一の谷の合戦の平家の本陣です。 (5)頼朝(義朝の三男)は、範頼(六男)を大手軍の大将に、義経(九男)を搦手軍の大将にして、東西から討ち入る日を決めて、平家討伐に派遣します。 オリジナルのHPは、新しい情報を入手する度に、編集し、情報を追記していったので、全体のストーリーが粗雑(繁雑)になったので、ストーリーの骨子を変更することなく、全体を整理し直した。 3-1.木戸 神戸の場合だと、南北に杭を打ち込み柵を作り、一か所だけ木戸を設け通行可能にした建造物。 現在、我々が、祭などで眼にする流鏑馬で疾走する馬や、相馬野馬追の馬は、サラブレッドで、当時の馬はいわゆる在来種で、サラブレッドよりかなり小型です。 体高cm 体重Kg 在来種 125~135 350~400 サラブレッド 160~170 450~500 騎馬武者 北海道にいた在来種の”道産子”は、在来種としては大型で、200Kgの荷物を運べたそうですが、野間馬(愛媛県)は、蹄鉄なしでは、70Kg以上は運べなかったそうです。(すべての品種の積載量が分からないが) 当時の武将の身長・体重が分からないが、160cm以下で、60Kg以下程度だろう。武具+武器=20~25Kgらしいから、馬は80Kg前後を載せて走らねばならない。”戦場を疾走する”という姿とは程遠いのではないだろうか。 柵を設け、木戸を設けると、当時の騎馬武者は木戸以外を通過できなかったそうです。 3-2.東の木戸 平家は、生田神社辺りを通る柵を設けたようです。木戸の位置がはっきりしませんが、GoogleMapを拡大して調べると、現在の元町商店街の位置に西国街道があったようです。従ってその東への延長線上の大丸か三宮神社辺りに木戸があった可能性が高い。西国街道の北は生田の森で、南は海岸で砂浜か湿地帯だったと推察されます。 平知盛(清盛の四男)が大手軍の大将として大和田泊の本陣から出陣 3-3.西の木戸 その位置が明確ではありませんが、板宿辺りにあった可能性が高い。柵の南の端は海岸ですが、北の端は山裾までは遠い。高取山の麓までだったのではないかと思います。木戸はやはり西国街道上(高速長田と西代を結ぶ延長線上)にあっただろうと思います。これだと、高取山の北側の太山寺(現在の西神ニュータウン)→古・明泉寺→長田への街道はフリーパスになる。(詳細を後述) 平忠度(清盛の異母弟)が搦手軍の大将として大和田泊の本陣から出陣 高取山の北側を守るために、平盛俊(伊勢平氏=平家の家臣。平家も伊勢平氏だが)が古・明泉寺に布陣 古・明泉寺 現在の明泉寺(長田区明泉寺町)を、新・明泉寺と表記します。新・明泉寺から1.6Km坂を上った所に当時の明泉寺(古・明泉寺)があった。 3-4.三草山の陣 平家は、北西側からも源氏軍が攻めてくると想定して、兵庫県小野市の北、加東市の三草山にも陣を構え、平資盛(清盛の嫡男の次男)を出陣させていた。 源範頼を大将として、西国街道(現在のR171)を通り、京→西宮→東の木戸を目指します。 4-2.搦手軍 源義経を大将として、当時の街道の正確な位置が分かりませんが、京→亀岡→丹波篠山→加東市→小野市を目指します。このコースはアップダウンが少なく、現在、車で容易に走れます。当時も馬で容易に進軍できたと考えられます。 義経は、小野市の南の三木市辺りで、少数で隠密裏に本体から離脱し、→藍那→現在の神戸市立鵯越墓園の北出入口辺りを通り、墓園内の高尾山の手前の高尾地蔵院で一時停止します。・・・続きは5項へ。 搦手軍本隊は、→太山寺(西神ニュータウン)→須磨離宮公園の西側の道→板宿(西の木戸)へ攻め込んだと考えられます。・・・そう考えた理由を後述(6項) 残念ですが、高尾山山頂には行けず、義経と同じ景色を見ることはできません。 一の谷の合戦は、1184/03/20(前夜の月齢は5、月の入りは22:30) 前夜の月は、半月の少し手前ですが、月明かりである程度見えたと思います。 GoogleMapやその他の地図ソフトから、近辺の標高などを考慮すると、東から順に、生田神社は山影になりそうですが、ハーバーランド(当時は海かな?)あるいは南京町辺り(当時は海岸かな?)は見えそうですから、平知盛軍の最後尾は見えたと思います。 正面に、大和田泊の平家本陣、右手前に、古・明泉寺に陣を張った平盛俊軍、その向こうに平家の西の端の陣の平忠度軍が見えたと思います。
現在、高尾山山頂に電波塔のような施設があり、金網で囲まれており、立ち入りできず、義経と同じ景色を見ることはできませんが、その1.8Km南南東の鵯越大仏展望台からは、市街を見下ろすことができます。
5-2.義経進軍と知盛敗走 ①知盛は、合戦開始後2時間前後で敗走した。 ②知盛は長男知章と共に敗走し、知章が犠牲になっている間に知盛は逃走し、大和田の本陣に戻った。 石碑=孝子 武蔵守平朝臣知章 ということで、知盛は、生田の森から直接(最短で)大和田の本陣には戻らず、現・明泉寺前を経由して戻った。 参考情報・・・生田神社からそれぞれまで、現在の道路での道程 生田神社→大和田泊まで最短コース=3.7Km 生田神社→山手→夢野町2→現・明泉寺→長田神社商店街→柳原→大和田泊=10.7Km ひよどり展望公園辺りの勾配が最も大きく、0.19以上です。現在はトンネルがあり、車で容易に下れます。 現在の道路では、鵯越南出入口から山麓バイパスの支線(無料区間)へ出ます。南出入口には、”史跡鵯越”の石碑がありますが、盛俊の陣を大日丘公園とみなすと、公園までの距離は500mです。南出入口を通過すると、盛俊軍に気づかれます。義経はもっと東寄りのコースを通ったと思いますが、GoogleMapでは、そのような道がありません。きっと、”鹿が通るような道”を下ったのだと思います。 注意・・・菊水町10は、車は時間制限で右折禁止です。右折可能であっても、追突される危険性が高い交差点です。右折後も、一方通行が多く、少し複雑に左折右折しないと、熊野橋へ抜けられません。 義経は、ここ会下山の蔭で、進軍を停止し、時が来るのを待ったと思います。そう考えた理由を次項に示します。 5-3.戦の始め方 この先の状況を説明する上で、当時の戦の始め方を説明しておきます。 ①木戸を挟んで両軍が睨みあい、両軍が斜め上に矢を放ち、相手陣地に打ち込みます。これを”矢合わせ”と言います。生田の森でもこれを行ったかどうかは分かりません。 ②騎馬武者が1騎前に出て、「やあやあ我こそは***(あるいは***の長男の***)である。木戸から出てきて、正々堂々勝負しろ!」とか叫びます。 ③無反応でしょうから、別の騎馬武者か先ほどの騎馬武者が、同じことを繰り返します。 ④平家物語によると、若い騎馬武者が一騎、突然、木戸の中に突入し、その辺りを駆け回り、出てきたそうです。きっと、「弱虫め、誰も相手せぬのか」などと叫んだのでしょう。 ⑤しばらくして、その騎馬武者が再度、木戸内に突入したそうです。今度は木戸を閉められ、出てこれなくなります。 ⑥これは危ない、助けなくては!と源氏軍が一斉に、木戸に突入して、本格的な戦が始まったそうです。 小競り合いが始まってから1~1.5時間は経過していたと考えられます。 5-4.義経出陣 源氏軍が一斉に突入した時、きっと「ワアー!」という歓声があがったと考えられます。2.4Km離れた会下山の蔭で待機していた義経は、その歓声を聞いて(あるいは、歓声が聞こえる位置まで誰かを差し向けておいて)、会下山の蔭から出て、→熊野橋→坂を下る→神戸電鉄湊川駅前(兵庫区役所前)→南下→新開地の信号を左折→西国街道あるいはその近くの生田の森の中→東進→知盛軍の背後に迫ったのだと思います。 補足 ・・・これが冒頭に言った、「敵が来るとは思わなった崖から源氏軍が現れて、不意を突かれ、海が迫っており逃げ場を失い、平家は負けた。」の真相だと思います。 5-5.知盛敗走 前面の範頼軍に集中していた知盛軍は、突然背後に義経軍が現れ、背後の敵に対する指示をする前に、軍全体がパニックになり、北の山裾に向かったのではないかと思います。知盛を囲むように大きな塊になって、山裾の道(山麓線)を西へ移動しながら、どこかを(どこでも)左折すれば大和田泊に戻れると考えたでしょうが、ことごとく源氏軍に差し止められたと考えられます。 →北野町→平野→雪見御所前→夢野町2→旧夢野墓地前→名倉町→ 直進すれば現・明泉寺前を通過しないので、名倉町を右折したと考えられます。 名倉町を右折し、集落を抜けて、現・明泉寺へ行けるチャンスは3ケ所です。 ①神戸電鉄の高架をくぐってすぐ。 ②坂を下って名倉小学校前の信号との中間点。 ③名倉小学校前の信号。 ③の信号の200m先には、平盛俊塚があります。 5-6.平盛俊 平盛俊は、古・明泉寺に陣を張っていましたが、義経軍が神戸電鉄湊川駅前を通過したのを1.5Km先の大和田泊の平家本陣から見つけ、古・明泉寺に伝令が走ったと考えられます。盛俊は、源氏の搦手軍を阻止するという本来の役目を放棄できず、全員を引き上げず、少数で様子を見に山を下りたのだと思います。現・明泉寺前を通過しさらに坂を下り、明泉寺橋を左折した名倉町2の辺りで、源氏軍の猪俣範綱に討たれます。猪俣範綱は義経が高尾山から下って、会下山の手前の三差路で、右方向へ差し向けられた武士グループです。範綱は盛俊を討った後もそこに留まっていたのだと考えられます。 名倉町の坂を下って来て、①の神戸電鉄の高架をくぐった位置からは、猪俣範綱は見えません。③の信号の位置からでは近すぎます。②の位置で前方に源氏軍がいるのに気が付き、右折したと考えられます。 ここを右折すると、集落内には、谷底を流れる川と、小さな山が複数あり、これを避けるように、網目状に道路があります。 注意・・・この橋は一方通行ですから、車で、名倉町側から通り抜けできません。 車で明泉寺へ行く場合は、迂回するため直進し、宮川町9を花山町方面(宮川町9はやや変則的な交差点ですが、広い道が花山町方面への道)へ右折し、その中間位置を右折し、堀切を経由して明泉寺へ行ってください。 現・明泉寺前を通過すると、→長田神社商店街→高速長田を左折→(ここから先は西国街道)→少し先の信号を斜めに右折→JR兵庫駅→柳原の信号を右折→JRの高架をくぐってすぐの変則五差路を蛭子神社を右に見るように斜めに進む(車は一方通行で進入禁止)→突き当りが大和田泊です。 6.搦手軍 須磨寺のHPによると、 義経軍の陣地であった。 境内に平敦盛の首塚がある。首洗いの池もある。 境内に義経腰掛の松がある。 境内に弁慶の鐘がある。・・・弁慶が大きな(重い)鐘を長刀の先にぶら下げてきた。(作り話くさい) 上記を満足するには、生田の森で知盛の背後をついた義経は、すぐに、合戦場全体を横切って、須磨寺に来なければならない。仮に、勝敗が決したとしても、多くの残党がいるだろうし、そんなリスクの高いことはしないだろう。 私は、これを以下のように考えます。 平敦盛の首塚と首洗いの池があるが、彼の胴塚は、須磨浦公園内にある。須磨浦公園で敦盛は討たれて、手柄の報告のため、討った武将(熊谷直実)が、首を須磨寺に持ってきて、首を洗い、手柄の報告をした後で、塚を作って供養した。つまり、ここは、合戦終了後の論功行賞の事務局が置かれたと考えるべきだ。ということは、搦手軍本体は、太山寺(西神ニュータウン)から、現・須磨離宮公園の西を通り、板宿方向に攻め込み、平忠度を討ちとり、勝敗が決した後、須磨寺に戦後処理の事務局を置いた。太山寺から須磨離宮公園への道のすぐ右側(西)に、須磨寺がある。 ここに義経がいたかどうかは疑わしい。義経腰掛の松と弁慶が長刀の先にぶら下げてきた釣鐘はセットで作り話だろう。完全に安全が確保されてから、来たかもしれないが、平家の残党が完全にいなくなるのには、かなりの時間がかかると思われる。 従って、搦手軍本隊は、義経と別れた後、須磨離宮公園の西側の道を下り、左折して西国街道を東へ進み、西の木戸で平忠度と戦ったと考えられる。 6ー1.平忠度(たいらただのり) 陣の位置がはっきりしませんが、駒ヶ林(JR新長田の南)で討たれています。 源平ごちゃまぜの状態の中で、源氏のような顔をして東向きに行進していたのに「名乗れ!」と言われ、「お見方でござる」と答えた笑顔から「お歯黒」をしているのを見破られ、平家だなと言われて岡部忠澄に討たれたと言われています。討たれた場所は「駒ヶ林」(JR新長田の南)(胴塚と腕塚があり、腕塚町という地名もある)です。 忠度の配下の人間は、全員関西(京都)弁か九州弁で、源氏軍は全員関東弁だ。挨拶も世間話もせずに並進できないだろう。このことを象徴的に「お歯黒」と表現されているのだろうと思います。 余談・・・最近は聞かなくなりましたが、無賃乗車を「さつまのかみ」と言いました。この人の官職は薩摩守(さつまのかみ)で、薩摩守平朝臣忠度(ただのり)が語源だそうです。 ここまでの話の全体図 盛・・・平盛俊の塚(討たれた場所) 以上が、一の谷の合戦(鵯越の逆落とし)の真相です。ここから先は、関連情報、参考情報、オタク的情報です。 久我興延は、鵯越を狩場としていた人物で、彼に鵯越の道案内などを依頼した。私の推察ですが、彼を交えて、作戦会議を開いて、 ①合戦前夜に高尾山頂上から、街を見下ろし、平家軍の全容・配置を把握する。 ②鵯越を下り、会下山の手前の最初に平地になった三差路で、誰か(小グループ)を右(板宿方面)に向かわせ、名倉町で、平家軍が来て義経軍の背後を襲うのを阻止する。 ③自分たちは左方向に坂を下り、菊水町10を右折し、会下山の陰で、時が来るのを待つ。(生田の森で対峙している平知盛軍が前面の源範頼軍に集中するのを待つ) ④その時が来たら、会下山の陰から出て、熊野橋辺りから湊川沿いに南下し、湊川トンネルあたり、あるいはもう少し南で左折し、知盛軍の背後を突く。 という作戦をたてたと考えられる。 偶然ですが、梅村伸雄という郷土史家が2004年4月25日に「家系研究協議会」で講演された記事をみつけました。その内容によると・・・ 義経を鵯越に案内したのは興延だが、興延は神戸の白川に存在した旧家の矢田氏(応神天皇皇子の額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコノミコ)の子孫)の娘が、京の公家・源雅通の子供・通直を産み、通直は白川村(高尾山は白川村から東へ4Km)付近を開発したが、その子が興延で、京都で叔父である土御門通親の案内で義経に会い、鵯越の道案内などを依頼された。興延はその時の功で、鷲尾姓を賜った。 ・・・だそうです。鷲尾家の子孫の方に、茶道を習ったという方がいました。900年以上も、家系が明確なようです。 オマケの話 上の話を知って、思ったことがある。 「先日の一の谷の合戦における、あなたの活躍を褒め称えるために、今後、”鷲尾”の姓を名乗るがいい。」と言ったのは誰だ? 後白河法皇? 官位とか土地とか金一封とか、副賞はなかったのか? 興延は、そんな副賞をありがたいとは思わないほど裕福な家柄だったのだろうか。 姓をもらった興延は、ありがたく思ったのだろうな。でなければ、900年以上経った現在にその姓を名乗る家は存続していないだろう。 政府の要人(多分。後白河法皇)が、興延が合戦の勝利におおいに貢献したと評価したことからも、この作戦の中心に、久我興延がいたと考えられる。 現在の地名で表現すると、大開通1~8が一の谷の湖があった範囲です。床下浸水したのは6~7丁目。当時の湊川は大開通8を通っていたという情報がありますから、その手前まで。 大開通4辺りの地名を紹介すると、北から、上沢通、下沢通(ここまでは緩い斜面)、中道通、水木通、大開通、少し飛んで、永沢町、柳原で、大開通以外は、なんとなく水絡みです。中道通の北に当時の湊川があり、西向きに流れ、中道通の南に一の谷の湖があり、柳原は、湖の南の湖畔と考えれば、地名のつじつまが合いそうですが、私のあてずっぽうです。 多くの文人、歌人が、文章や歌を残している。 一遍上人・・・津の国兵庫島(経ケ島と呼ばれる人工島)へ着いた時の情景が記され、「銭塘(銭塘江と西湖*14(サイコ))三千の宿眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」 平清盛は、左図のような雰囲気の湖にしたかったのかと思います。 紫式部、芭蕉、門部王も、歌や文章を残しています。兵庫島(経ケ島)のすぐ前の海岸を当時の西国街道が通っており、少し北西に行けば、一の谷の湖と当時の湊川があり、絶景だったようです。GoogleMapを拡大すれば、西国街道の位置が表示されます。 普通の神経の持ち主なら、再起不能の状態です。多分、全体のストーリーを理解できないまま、”なぜだ。どこで誤ったのだ”と悔やみながら、一生を終えたのではないかと思います。 後の祭 ・・・生田の森で背後に義経軍が現れた時、義経軍は少人数だったはずで、そのことを見極め、知盛軍が義経軍めがけて正面突破を図れば、大和田泊にたどり着けたと思います。当然ですが、義経軍はそう見破られないように、いろいろ工夫して、大きな勢力だと見せかけたと思いますが。 現在の我々は、「氏名」と「姓名」を同じものだと扱うが、厳密には違うものなのだ。 名倉町2に盛俊塚がある。幅50cm以上、高さ1m以上の立派な石碑です。小さな公園の中に立っていますが、私有地のような気がします。さらに、板宿に、門があって玄関があって屋根がある小さな家屋のような墓があります。誰の費用で建てたのだろうか不思議です。 盛俊は伊勢の平氏です。ネット検索すると、”平家に仕える伊勢平氏”と書かれている。つまり、平清盛一族(彼らも伊勢平氏)に仕える武士と考えられます。一の谷の合戦で盛俊が戦死したことを知った実家の人が、誰かを派遣し、名倉町2に土地を買ったか、その近くの人にお金を託し、塚を立てて供養を依頼したのではないだろうかと思います。名倉町2は墓参りには不便なので、忠度の墓参も同時にできる板宿に墓を建てたのではないかと思いました。 まったくの、オセッカイな見解です。 脱線・・・幼稚園か小学校の低学年の頃、地蔵盆の時に、よく、母の実家に行きました。盛俊塚には地蔵盆の飾りと催しがあって、実家から400m位です。神戸のこの辺りの地蔵盆は、子供なら誰でも、線香を持って行って、火をつけてお参りすれば、湯のみ茶碗一杯の”空豆を炒ったお菓子”がもらえました。それをハンカチに置いてもらい、4角をくっつけてねじってポケットに押し込みました。2ケ所回れば、左右のポケットは満杯です。ポケットを何とかして、3ケ所目に行こうなんて考えもしませんでした。 盛俊塚は大きな石碑(2m以上)だと思っていたのですが、最近見に行ったら、それより少し小ぶりの石碑でした。母は、その石碑を”盛俊さん”とさん付けで呼んでいました。 忠度 2024年12月13日、近くを通るついでに、忠度塚にお参りした。腕塚と胴塚がある。 腕塚 ・・・不思議が一杯だ。 隣=幅1m弱の路地を挟んだ隣(奥)の家 扉=隣の家の塀に腕塚を向いた扉がある。これとは別に、玄関の前の扉もある。 敷地の中に、建坪15坪程度の一般的な家屋と、12坪程度の家屋がある。プラス空き地(庭)だから、随分大きな面積だ。 大きい方の家は8畳以上の仏間があり、大きな位牌が3つ祀られている。真ん中は、忠度さん、左は、御家来御一同様で、右側は、忠度?家御一同様で理解しきれず。時々、10人位で畳に座って法事でもする雰囲気だ。小さい方の家屋には20体前後のお地蔵さんがいる。 紀伊半島の新宮から熊野川沿いに北上すると、国道沿いに「平忠度生誕の地」という大きな看板が、2回、現れます。この資料を作るまでもその看板を見ていたでしょうが、何者か考えもしませんでした。清盛の弟になる子を身ごもった女性が里帰りし、忠度を産み、18才の時に、熊野詣に来た清盛が迎えに来て一緒に京に行ったのは、800年以上昔の話です。実家の集落にとっては、大切な息子だったのだと思います。 2025/05/20追記 2025/05/20に南紀勝浦へ行った帰りに、R168を北上し、平忠度の看板を確認した。 右の写真・・・新宮から18Km、「生誕の地」 ”郷”の方が広範囲を示し、”地”はピンポイントだろう。しかし、”地”の場所は、東に熊野川があり、堤防上を国道が走り、その西側は斜面が迫っており、斜面に畑と、パラパラと家屋が散在していた。大きな集落に大きな屋敷がある風景を期待していたが、期待は外れた。 明石市山陽電鉄人丸駅近くにも忠度の墓があり、この辺りで戦い、討たれたとあるが、上記のストーリーから大きく外れるので、無視しました。 腕塚の面積が広いこと・・・一の谷の合戦の直後に、多分、実家の人がこれほど大きな塚を作ったのだろうと思っていたが、中にある石碑の一つに、「・・・腕塚堂改増修築発起人 灘新在家*****」と書かれていた。理由や規模などは分からないが、神戸(灘新在家)在住の人達が、設立当初より面積を増やした可能性が高い。 忠度が亡くなったのは800年以上前だから、今見る建屋は、当然、それ以降に建て替えあるいは増設されたものだ。 第二次世界大戦や阪神淡路大震災で、いずれもこの地域は大きな被害だったはずだ。それを乗り越えて、これだけの規模を維持しているのに、ある種の疑問と尊敬の念が沸いた。 気になったこと (おせっかいな想像) おまけの観光案内 駒ヶ林をGoogle Mapで調べている時に、以下の”碑”を見つけた。 清盛上陸の地 清盛は宮島などを訪問した後、この辺りに上陸したらしい。 いかなごのくぎ煮発祥の地 いかなごのくぎ煮はこの辺りから播磨灘一帯の春の風物詩です。 いかなごの解禁日があり、体長3cm位の幼魚が販売されます。私の母はこれを1Kgとか2Kgとか、魚屋に予約しそれを自宅でくぎ煮にし、送ってくれていました。生のいかなごと生姜を醤油と砂糖で佃煮のように炊く(煮る)と、地面に落ちた錆びた古釘のように”く”の字に曲がるので、”くぎ煮”というのだと思います。いかなご漁は1000年以上前からあったそうですが、いつからくぎ煮が広まったかは定かではないそうです。1935年にはあったそうですが、重労働である漁師向けの濃い味付けだったものを1980年頃に、少し薄い味付けに変えて、広く普及したと書かれていました。 駒ヶ林には、税関の支所のような役所があり、砂糖が手に入りやすく、その砂糖と醤油で味付けした”くぎ煮”が古くから食べられていたという記事もありました。 いかなごは、解禁日から3日経つと、体調が4cmくらいになり、あっという間に、10cmを越えます。解禁直後以外は、浜で湯がかれて販売されます。6~8cm位の時期に購入し、網の上で焼いて、南蛮漬け程度の調味液に漬けて、半日以上寝かせてから食べるのが好きでした。 残念ですが、2020年以降は不漁です。下水などの処理が進み、海水の”栄養成分”が下がり、海がきれいになったことが原因ではないかと言われています。ということは、それまでにいかなごが食べていた栄養分の大部分は、何だったのかと考えると、それ以上は考えたくない現象です。 平盛俊が、古明泉寺に陣を構えたが、なぜ、太山寺に陣を構えなかったのだろう。そうすれば、長田へ来るケースと板宿に来るケースの両方に対応できた。 後白河法皇が天皇時代に太山寺に行脚しているし、僧兵で武装していたらしい。太山寺は天台宗(本山は比叡山延暦寺)のお寺で、平家が陣を構えるのを拒否したのだろうな。古・明泉寺は焼け落ちたが、太山寺は焼けなかったようだ。 古・明泉寺を経由して長田への街道には陣を構えたから、板宿へ来るコースに陣を構えなければならない。→明石→塩屋→須磨→板宿の可能性があるから、太山寺→板宿の街道より、東に陣を構えねばならない。木戸を構えるなら、駒ヶ林(新長田)(平忠度が打たれた場所)辺りでなければならない。 そう考えると、太山寺に陣を構えられなかったのが先で、その状況から、西の木戸の位置が駒ヶ林辺りになったと考えるべきだ。 |
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ここをクリック 選択画面の先頭に戻る ここをクリック このプレゼンは3部構成で、続き=「壇ノ浦の戦いの真実」があります。 一の谷で敗れた平家は四国の屋島に逃れ、そこでも敗れて、壇ノ浦へ逃れます。そこでも敗れ、幼い安徳天皇を抱いた祖母(清盛の後妻)が海に飛び込み、平家は滅亡したと言われていますが、高知県越智町に、安徳帝陵墓参考地・宮内庁管轄、平知盛他の墓を見つけました。全国に平家の落人の里はありますが、ここは正真正銘の平家の里だと思いました。そう考えた根拠などをまとめました。 壇ノ浦の戦いの真実に進む ここをクリック |