一部の検索機能から直接このホームページを表示させると、文章中の写真が表示されない事があります。URLが、 http://atc3m.sakura.ne.jp/004ichinotani.html であることを確認してください。 http://atc3m.sakura.ne.jp/004ichinitani/ になっている場合は、最終部の"/"を削除し、".html"を追加してください。 このホームページは、源平一の谷の合戦の正しい姿についての考察と、ゆかりの場所の観光案内です。 平知盛、平忠度、平盛俊の陣の位置を検討し、それらの行動が矛盾なく連動するストーリーを考えました。合戦のストーリー(私の推察・考察を含む)を黒文字で、観光案内と私がそう考える理由・考察を青文字で表示します。
敵が来るとは思わなった崖から源氏軍が現れて、不意を突かれ、海が迫っており逃げ場を失い、平家は負けた。 結構、ポピュラーな一の谷の合戦のイメージですが、間違いだらけです。 このイメージの大元は、平家物語と考えられますが、平家物語は、歴史的事実を表した記録ではありません。特に、”どこで?”という情報が欠如しています。聴衆は主として”都の人”で、多分、講談、歌舞伎の台本に近いものだと思います。しかし、それを承知で、平家物語をベースにして、一の谷の合戦の全体像を考えてみました。 地名は全て現在の地名で表現しました。 前半は源義経、後半は平知盛になったつもりで、一の谷近辺を旅している気持ちで読んでください。 (2)清盛亡き後、木曽義仲(源頼朝・義経の従兄弟)が挙兵し、福原京を焼き払い、平家は西国へ落ち延びます。 (3)源頼朝が挙兵し、木曽義仲を討ちます。 (4)勢力を整え直した平家が、福原京に戻り、船団で大和田泊(おおわだのとまり)(現・和田岬とハーバーランドの間)に集結します。ここが一の谷の合戦の平家の本陣です。 (5)頼朝(義朝の三男)は、範頼(六男)を大手軍の大将に、義経(九男)を搦手軍の大将にして、東西から討ち入る日を決めて、平家討伐に派遣します。
その後、義経は、三木辺りで、少数で隠密裏に本体から離脱し、→藍那→鵯越へ進軍します。 搦手軍本体のその後は5項へ続く前夜の月は、半月の少し手前ですが、月明かりである程度見えたと思います。 現在の鵯越墓園の高尾山の手前に、合葬墓と呼ばれる、駐車場とトイレを備えた、スペースがあります。義経は、ある程度の人数の武者たちをここに待機させ、少数で(自分たちは)さらに200m程度進み、高尾地蔵院の境内に馬をつないだと考えられます。
残念ですが、高尾山山頂には行けず、義経と同じ景色を見ることはできません。 山頂から、義経が見た景色については、少し後(*10)で述べますが、その前に、平家の陣の位置についての考察です。生田の森は、現・生田神社辺りで、生田川から大倉山辺りまでの大きな森だったようです。 柵を設け、木戸を設置すると、総重量20~25Kgの武器や武具を装備した騎馬武者は、木戸以外を通過できないそうです。 東から来る源範頼軍に対して、平知盛(清盛の四男)と副将軍重衡(清盛の五男)は、平家本陣から生田の森に出陣します。ここが両軍の東の位置です。 生田神社境内には、ここが生田の森で、一の谷の合戦が行われたという内容の看板があります。 平家は西あるいは北西からも源氏軍が来ることを想定していたと考えられ、その対策の一つとして、加東市の三草山に陣を構えていました。 当時、現在の地名で、太山寺(たいさんじ)(西神ニュータウンあたり)から、長田へ来る街道と、板宿に来る街道があり、その両方に対応し、陣を構えたと考えられます。 詳細は後述しますが、平盛俊は、古明泉寺から1.6Km+0.45Km坂を下った明泉寺橋を左折し、100mの位置(名倉町2に平盛俊塚がある)で討たれています。 (*10)高尾山山頂から義経が見た景色 正面に、大和田泊の平家本陣、右手前に、古・明泉寺に陣を張った平盛俊軍、その向こうに平家の西の端の平忠度軍が見えたと思います。 現在、高尾山山頂に電波塔のような施設があり、金網で囲まれており、立ち入りできず、義経と同じ景色を見ることはできませんが、その1.8Km南南東の鵯越大仏展望台からは、市街を見下ろすことができます。
下の写真は、展望台上で場所を変えながら撮影した景色です。
東から①、②、③、④と並んでおり、①と②の間に、大和田泊がありますが、見えているのか、前の山が邪魔で、見えていないのか分かりません。
現在の道路では、鵯越南出入口から山麓バイパスの支線(無料区間)へ出ます。南出入口には、”史跡鵯越”の石碑がありますが、盛俊の陣を大日丘公園とみなすと、公園までの距離は500mです。南出入口を通過すると、盛俊軍に気づかれます。義経はもっと東寄りのコースを通ったと思いますが、GoogleMapでは、そのような道がありません。きっと、”鹿が通るような道”を下ったのだと思います。
注意・・・菊水町10は、車は時間制限で右折禁止です。右折可能であっても、追突される危険性が高い交差点です。右折後も、一方通行が多く、少し複雑に左折右折しないと、熊野橋へ抜けられません。 義経は、ここで、進軍を停止し、時が来るのを待ったと思います。そう考えた理由を次項に示します。 ②知盛は長男知章と共に敗走し、知章が犠牲になっている間に知盛は逃走し、大和田の本陣に戻った。 石碑=孝子 武蔵守平朝臣知章
ということで、知盛は、生田の森から直接(最短で)大和田の本陣には戻らず、現・明泉寺前を経由して戻った。
義経軍は少数であるのに、知盛軍が敗走した理由を考えました。
西国街道がJR神戸駅前(北側)→元町商店街→大丸前を通っており、その北側は生田の森だったと考えられます。義経は、西国街道を一気に走って知盛軍に突入したか、西国街道近くの森の中を進み、知盛軍に近づいたと考えられます。
自軍の背後つまり大和田泊の本陣との間に義経軍が現れ、知盛(軍)は、西に配置した平家軍を破ってきたにしては早すぎるなと思いながらも、そうかもしれない、しまった挟まれたと思い、反射的に山側へ逃げたのだと思います。(この辺りの西国街道は海岸近くを通っていたと考えられるので、義経が西国街道を押さえると、海側へは逃げられない。)
これが冒頭に言った、「敵が来るとは思わなった崖から源氏軍が現れて、不意を突かれ、海が迫っており逃げ場を失い、平家は負けた。」の真相だと思います。 ②矢合わせと言って、両軍が一斉に矢を斜め前方に放ち、敵陣に撃ち込み続けます。これが戦いの始まりです。 ③ある程度の時間経過後、源氏の元気な騎馬武者が2~3歩前へ出て、「やあやあ我こそはXXの(あるいはXXの子供の)XXである。木戸から出てきて、正々堂々、勝負しろ。」と大声で叫びます。「・・・・・・」「出てこぬのか、弱虫め!」とか言って元の位置に戻ります。 ④別の騎馬武者が、同じことを繰り返します。 ⑤何人(何回)か繰り返します。 平家物語によると、突然、源氏の若い騎馬武者が1騎、木戸から突入し、その辺りを駆け回って出てきます。「誰も相手をせぬのか、臆病者め!」と叫びます。 ⑥再度、木戸内に突入した時、木戸を閉められ戻れなくなります。これは危ないと、源氏軍が一斉に木戸へ突入し、戦が始まったようです。 さて、戦が始まった②から1時間前後経っているのではないでしょうか。一斉に突入した時に、大きな叫び声をあげたはずで、これを2.4Km離れた会下山の蔭で聞いた(あるいはそれが聞こえる位置まで誰かを忍ばせた)義経は、会下山の蔭から飛び出し、平知盛軍の背後に迫ったと考えられます。 狭義には、高尾山を下ってから、会下山の手前の最初の三差路までが、鵯越の逆落としですが、私は、高尾山を下ってから、知盛軍の背後に現れるまでの道程全体が鵯越の逆落としだと思います。 義経は、鵯越の翁と呼ばれた土御門通親を訪ね、甥である久我(こが)興延を紹介された。「平家の陣地に忍び込みたい。」と言ったところ、「そこには道はない。鹿が通る道ならある。」と言われたらしい。だとしたら、「鹿が通れるなら馬も通れる」という有名なセリフは、その時に言ったと考えられる。 久我興延は、鵯越を狩場としていた人物で、彼に鵯越の道案内などを依頼した。私の推察ですが、彼を交えて、作戦会議を開いて、 ①合戦前夜に高尾山頂上から、街を見下ろし、平家軍の全容・配置を把握する。 ②鵯越を下り、会下山の手前の最初に平地になった三差路で、誰か(小グループ)を右(板宿方面)に向かわせ、名倉町で、平家軍が来て義経軍の背後を襲うのを阻止する。 ③自分たちは左方向に坂を下り、菊水町10を右折し、会下山の陰で、時が来るのを待つ。(生田の森で対峙している平知盛軍が前面の源範頼軍に集中するのを待つ) ④その時が来たら、会下山の陰から出て、熊野橋辺りから湊川沿いに南下し、湊川トンネルあたり、あるいはもう少し南で左折し、知盛軍の背後を突く。 という作戦をたてたと考えられる。 偶然ですが、梅村伸雄という郷土史家が2004年4月25日に「家系研究協議会」で講演された記事をみつけました。その内容によると・・・ 義経を鵯越に案内したのは興延だが、興延は神戸の白川に存在した旧家の矢田氏(応神天皇皇子の額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコノミコ)の子孫)の娘が、京の公家・源雅通の子供・通直を産み、通直は白川村(高尾山は白川村から東へ4Km)付近を開発したが、その子が興延で、京都で叔父である土御門通親の案内で義経に会い、鵯越の道案内などを依頼された。興延はその時の功で、鷲尾姓を賜った。 ・・・だそうです。鷲尾家の子孫の方に、茶道を習ったという方がいました。900年以上も、家系が明確なようです。 「先日の一の谷の合戦における、あなたの活躍を褒め称えるために、今後、”鷲尾”の姓を名乗るがいい。」と言ったのは誰だ? 後白河法皇? 官位とか土地とか金一封とか、副賞はなかったのか? 興延は、そんな副賞をありがたいとは思わないほど裕福な家柄だったのだろうか。 姓をもらった興延は、ありがたく思ったのだろうな。でなければ、900年以上経った現在にその姓を名乗る家は存続していないだろう。 政府の要人(多分。後白河法皇)が、興延が合戦の勝利におおいに貢献したと評価したことからも、この作戦の中心に、久我興延がいたと考えられる。 (5)明泉寺前を通る異常さ 本来なら、知盛はそのまま直進したかったと思いますが、知盛(軍)は、その先に、源氏(軍)がいるのが見えたのだと思います。 名倉小学校前の交差点の200m先には、現在、平盛俊の塚があります。盛俊は、古明泉寺に陣を張っており、源氏軍に夢野を通過され、様子を見に行こうとし、名倉町で、猪俣範綱に討たれました。(前述*13)猪俣範綱は、義経軍に属する武士で、鵯越を下った時点で、名倉町方面に差し向けられたと考えられます。猪俣範綱は盛俊を討った後も、その場に留まっていたと考えられます。 当時は、住宅は少なく、今ほどではないでしょうが、名倉町から集落内を抜けて現明泉寺前へ行こうとすると、集落内の道幅は狭く、当時も曲がりくねっていたはずで、地元民以外が通り抜けるのは大変です。 ①現神戸電鉄の高架をくぐってすぐ。しかしここからは、道路がカーブしており、まだ、源氏軍の姿は見えません。 ②名倉小学校の前の信号(交差点)との中間の右側に、信用金庫がありますが、ここを右折したと思います。ここを進入した先は、曲がりくねっています。 ③名倉小学校前の信号(交差点)を右折すると、現・明泉寺迄700mで道は単純ですが、この交差点から、盛俊塚まで、200mです。もっと手前で知盛は源氏軍の存在に気付くはずですから、200mまで接近しない(できない)でしょう。
車で明泉寺へ行く場合は、迂回するため直進し、宮川町9を花山町方面(宮川町9はやや変則的な交差点ですが、広い道が花山町方面への道)へ右折し、その中間位置を右折し、堀切を経由して明泉寺へ行ってください。 明泉寺前の峠を越えれば、あとは一本道です。 現明泉寺前→ 坂を下り→明泉寺橋→長田神社商店街→高速長田の交差点を斜めに左折(ここから柳原までは、旧西国街道です。当時と同じ位置に道路があると考えられます)→少し先の交差点を斜めに右折→JR兵庫駅前→柳原の交差点を右折→JRの高架をくぐった先を斜め右に(斜め左が西国街道で、知盛は斜め左の道を進んだと思いますが、車は一方通行で進入禁止)→阪神高速の高架をくぐった先を斜め左に
義経軍の陣地であった。 境内に平敦盛の首塚がある。首洗いの池もある。 境内に義経腰掛の松がある。 境内に弁慶の鐘がある。・・・弁慶が大きな(重い)鐘をかついできた。(作り話くさい) 上記を満足するには、生田の森で知盛の背後をついた義経は、すぐに、合戦場全体を横切って、須磨寺に来なければならない。仮に、勝敗が決したとしても、多くの残党がいるだろうし、そんなリスクの高いことはしないだろう。 私は、これを以下のように考えます。 平敦盛の首塚と首洗いの池があるが、彼の胴塚は、須磨浦公園内にある。須磨浦公園で敦盛は討たれて、手柄の報告のため、討った武将(熊谷直実)が、首を須磨寺に持ってきて、首を洗い、手柄の報告をした後で、塚を作って供養した。つまり、ここは、合戦終了後の論功行賞の事務局が置かれたと考えるべきだ。ということは、搦手軍本体は、太山寺(西神ニュータウン)から、現・須磨離宮公園の西を通り、板宿方向に攻め込み、平忠度を討ちとり、勝敗が決した後、須磨寺に戦後処理の事務局を置いた。太山寺から須磨離宮公園への道のすぐ右側(西)に、須磨寺がある。 ここに義経がいたかどうかは疑わしい。弁慶が引きづってきたと言われる大きな鐘があるが、人の力で移動できないのは明らかで、義経腰掛の松とセットで作り話だろう。完全に安全が確保されてから、来たかもしれないが、平家の残党が完全にいなくなるのには、かなりの時間がかかると思われる。 現在の地名で表現すると、大開通1~8が一の谷の湖があった範囲です。床下浸水したのは6~7丁目。当時の湊川は大開通8を通っていたという情報がありますから、その手前まで。 大開通4辺りの地名を紹介すると、北から、上沢通、下沢通(ここまでは緩い斜面)、中道通、水木通、大開通、少し飛んで、永沢町、柳原で、大開通以外は、なんとなく水絡みです。中道通の北に当時の湊川があり、西向きに流れ、中道通の南に一の谷の湖があり、柳原は、湖の南の湖畔と考えれば、地名のつじつまが合いそうですが、私のあてずっぽうです。 多くの文人、歌人が、文章や歌を残している。 一遍上人・・・津の国兵庫島(経ケ島と呼ばれる人工島)へ着いた時の情景が記され、「銭塘(銭塘江と西湖*14(サイコ))三千の宿眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」
紫式部、芭蕉、門部王も、歌や文章を残しています。兵庫島(経ケ島)のすぐ前の海岸を当時の西国街道が通っており、少し北西に行けば、一の谷の湖と当時の湊川があり、絶景だったようです。GoogleMapを拡大すれば、西国街道の位置が表示されます。 経ケ島は、平清盛が改修工事に力を入れた島で、ここを拠点に、中国との貿易などを行った港です。 現在は、島ではなく、陸続きです。当時の島の上に、来迎寺があり、平家というより平清盛ゆかりの人達の供養の施設があります。 普通の神経の持ち主なら、再起不能の状態です。多分、全体のストーリーを理解できないまま、”なぜだ。どこで誤ったのだ”と悔やみながら、一生を終えたのではないかと思います。 ここから先は、歴史オタクのコメントです。そんな内容が好きな方は、お読みください。 源氏 現在の我々は、「氏名」と「姓名」を同じものだと扱うが、厳密には違うものなのだ。 騎馬武者 現在、我々が見る”疾走する馬”は、サラブレッドです。源平時代の馬は在来種(日本固有の種類)です。 体高cm 体重Kg 在来種 125~135 350~400 サラブレッド 160~170 450~500 北海道にいた在来種の”道産子”は、在来種としては大型で、200Kgの荷物を運べたそうですが、野間馬(愛媛県)は、蹄鉄なしでは、70Kg以上は運べなかったそうです。(すべての品種の積載量が分からないが) 平知盛の身長・体重が分からないが、160cm以下で、60Kg以下程度だろう。武具+武器=20~25Kgらしいから、馬は80Kg前後を載せて走らねばならない。”戦場を疾走する”という姿とは程遠いのではないだろうか。義経軍に追いかけられながら、生田神社から→北野→山手→夢野→明泉寺前→長田神社→大和田泊=11Kmを逃げる知盛の姿は、夢の中で怖いものに追いかけられているのに体が動かない自分の姿と重なる。 (1) 東の木戸 柵の北の端は、山で、南の端は海であろうから、通行規制の効果は大きい。 平盛俊が、古明泉寺に陣を構えたが、なぜ、太山寺に陣を構えなかったのだろう。そうすれば、長田へ来るケースと板宿に来るケースの両方に対応できた。 後白河法皇が天皇時代に太山寺に行脚しているし、僧兵で武装していたらしい。太山寺は天台宗(本山は比叡山延暦寺)のお寺で、平家が陣を構えるのを拒否したのだろうな。古明泉寺は焼け落ちたが、太山寺は焼けなかったようだ。 古明泉寺を経由して長田への街道には陣を構えたから、板宿へ来るコースに陣を構えなければならない。→明石→塩屋→須磨→板宿の可能性があるから、太山寺→板宿の街道より、東に陣を構えねばならない。木戸を構えるなら、駒ヶ林(新長田)(平忠度が打たれた場所)辺りでなければならない。 柵の南の端は海であろうが、北の端は、山までは遠い。一番近いのは、高取山の麓だ。しかし、これでは古明泉寺→現明泉寺→長田神社商店街へ来る源氏軍は、素通りだ。やむなく、古明泉寺に陣を構えたのだろう。 そう考えると、太山寺に陣を構えられなかったのが先で、その状況から、西の木戸の位置が駒ヶ林辺りになったと考えるべきだ。 盛俊 盛俊は伊勢の平氏です。ネット検索すると、”平家に仕える伊勢平氏”と書かれている。つまり、平清盛一族(彼らも伊勢平氏)に仕える武士と考えられます。一の谷の合戦で盛俊が戦死したことを知った実家の人が、誰かを派遣し、名倉町2に土地を買ったか、その近くの人にお金を託し、塚を立てて供養を依頼したのではないだろうかと思います。名倉町2は墓参りには不便なので、忠度の墓参も同時にできる板宿に墓を建てたのではないかと思いました。 まったくの、オセッカイな見解です。 脱線・・・幼稚園か小学校の低学年の頃、地蔵盆の時に、よく、母の実家に行きました。盛俊塚には地蔵盆の飾りと催しがあって、実家から400m位です。神戸のこの辺りの地蔵盆は、子供なら誰でも、線香を持って行って、火をつけてお参りすれば、湯のみ茶碗一杯の”空豆を炒ったお菓子”がもらえました。それをハンカチに置いてもらい、4角をくっつけてねじってポケットに押し込みました。2ケ所回れば、左右のポケットは満杯です。ポケットを何とかして、3ケ所目に行こうなんて考えもしませんでした。 盛俊塚は大きな石碑(2m以上)だと思っていたのですが、最近見に行ったら、それより少し小ぶりの石碑でした。母は、その石碑を”盛俊さん”とさん付けで呼んでいました。
腕塚 ・・・不思議が一杯だ。
紀伊半島の新宮から熊野川沿いに北上すると、国道沿いに「平忠度生誕の地」という大きな看板が、2回、現れます。この資料を作るまでもその看板を見ていたでしょうが、何者か考えもしませんでした。清盛の弟になる子を身ごもった女性が里帰りし、忠度を産み、成人になった後に、熊野詣の時に清盛が迎えに来て一緒に京に行ったのは、800年以上昔の話です。実家の集落にとっては、大切な息子だったのだと思います。 明石市山陽電鉄人丸駅近くにも忠度の墓があり、この辺りで戦い、討たれたとあるが、上記のストーリーから大きく外れるので、無視しました。
腕塚の面積が広いこと・・・一の谷の合戦の直後に、多分、実家の人がこれほど大きな塚を作ったのだろうと思っていたが、中にある石碑の一つに、「・・・腕塚堂改増修築発起人 灘新在家*****」と書かれていた。理由や規模などは分からないが、神戸在住の人達が、設立当初より面積を増やした可能性が高い。
気になったこと (おせっかいな想像) 清盛は宮島などを訪問した後、この辺りに上陸したらしい。 いかなごのくぎ煮発祥の地 いかなごのくぎ煮はこの辺りから播磨灘一帯の春の風物詩です。 いかなごの解禁日があり、体長3cm位の幼魚が販売されます。私の母はこれを1Kgとか2Kgとか、魚屋に予約しそれを自宅でくぎ煮にし、送ってくれていました。生のいかなごと生姜を醤油と砂糖で佃煮のように炊く(煮る)と、地面に落ちた錆びた古釘のように”く”の字に曲がるので、”くぎ煮”というのだと思います。いかなご漁は1000年以上前からあったそうですが、いつからくぎ煮が広まったかは定かではないそうです。1935年にはあったそうですが、重労働である漁師向けの濃い味付けだったものを1980年頃に、少し薄い味付けに変えて、広く普及したと書かれていました。 駒ヶ林には、税関の支所のような役所があり、砂糖が手に入りやすく、その砂糖と醤油で味付けした”くぎ煮”が古くから食べられていたという記事もありました。 いかなごは、解禁日から3日経つと、体調が4cmくらいになり、あっという間に、10cmを越えます。解禁直後以外は、浜で湯がかれて販売されます。6~8cm位の時期に購入し、網の上で焼いて、南蛮漬け程度の調味液に漬けて、しばらく寝かせてから食べるのが好きでした。 残念ですが、2020年以降は漁が不良です。下水などの処理が進み、海水の”栄養成分”が下がり、海がきれいになったことが原因ではないかと言われています。ということは、それまでにいかなごが食べていた栄養分の大部分は、何だったのかと考えると、それ以上は考えたくない現象です。 |
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