一の谷の合戦の真実

源義経を中心にした源平一の谷の合戦の全体像についての考察・・2025/01/22改定


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このホームページは、源平一の谷の合戦の正しい姿についての考察と、ゆかりの場所の観光案内です。 平知盛、平忠度、平盛俊の陣の位置を検討し、それらの行動が矛盾なく連動するストーリーを考えました。合戦のストーリー(私の推察・考察を含む)を黒文字で、観光案内と私がそう考える理由・考察を青文字で表示します。

1.はじめに
急な坂に躊躇する部下達を見て、「鹿が通れるなら馬も通れるはずだ」と叫んだ義経が先頭をきって、須磨浦公園の背後の山を駆け下りた。
敵が来るとは思わなった崖から源氏軍が現れて、不意を突かれ、海が迫っており逃げ場を失い、平家は負けた。
結構、ポピュラーな一の谷の合戦のイメージですが、間違いだらけです。
このイメージの大元は、平家物語と考えられますが、平家物語は、歴史的事実を表した記録ではありません。特に、”どこで?”という情報が欠如しています。聴衆は主として”都の人”で、多分、講談、歌舞伎の台本に近いものだと思います。しかし、それを承知で、平家物語をベースにして、一の谷の合戦の全体像を考えてみました。
地名は全て現在の地名で表現しました。
前半は源義経、後半は平知盛になったつもりで、一の谷近辺を旅している気持ちで読んでください。

2.歴史的背景
(1)平清盛が、都を福原に移した。
雪見御所の石碑 神戸市の山麓線(北野から夢野町にかけて、山裾を通っている道路)の平野交差点の270m西の旧湊山小学校の跡地(現在は、みなとやま水族館)に、雪見御所跡の石碑があります。ここが福原京の御所・平清盛の館です。ここの地名は雪御所町(ゆきのごしょ)です。さらにここから距離で800m南が、福原京の政治の中心地です。
(2)清盛亡き後、木曽義仲(源頼朝・義経の従兄弟)が挙兵し、福原京を焼き払い、平家は西国へ落ち延びます。
(3)源頼朝が挙兵し、木曽義仲を討ちます。
(4)勢力を整え直した平家が、福原京に戻り、船団で大和田泊(おおわだのとまり)(現・和田岬とハーバーランドの間)に集結します。ここが一の谷の合戦の平家の本陣です。
(5)頼朝(義朝の三男)は、範頼(六男)を大手軍の大将に、義経(九男)を搦手軍の大将にして、東西から討ち入る日を決めて、平家討伐に派遣します。

両軍の人数について
平家物語では、源氏の大手軍、平家の大手軍は50,000~55,000騎、源氏の搦手軍10,000騎です。平家軍は、船に乗って、九州から来た人達です。50,000騎+αを船で運んだというのは、疑わしい。という事で、人数は検討対象外とし、平家物語の人数の1%程度だっただろうというイメージで考察を続けます。

3.義経の行動
当時の街道の位置が分かりませんが、現在の道路を元に考えると、京都→亀岡→丹波篠山→加東市→小野市辺りを進んだと考えられます。現在、このコースを車で走れますが、アップダウンの少ないコースです。当時も容易に馬で進軍できたと思います。

三草山のモニュメント 途中、三草山(加東市)の平家の出先部隊に圧勝します。R372沿いに、”平家本陣跡”のモニュメントがあります。

その後、義経は、三木辺りで、少数で隠密裏に本体から離脱し、→藍那→鵯越へ進軍します。

搦手軍本体のその後は5項へ続く

4.合戦前夜の義経と源平各軍の位置
義経は、藍那から現在の神戸市立鵯越墓園北出入口あたりを通り、南、あるいは南南東に進軍したと考えられます。 一の谷の合戦は、1184/03/20(前夜の月齢は5、月の入りは22:30)
前夜の月は、半月の少し手前ですが、月明かりである程度見えたと思います。
現在の鵯越墓園の高尾山の手前に、合葬墓と呼ばれる、駐車場とトイレを備えた、スペースがあります。義経は、ある程度の人数の武者たちをここに待機させ、少数で(自分たちは)さらに200m程度進み、高尾地蔵院の境内に馬をつないだと考えられます。

義経馬つなぎの松跡 神戸市立「鵯越墓園」の案内によると、「園内の高尾地蔵院境内には、義経が鵯越進軍の途中ここで休憩し、境内の松に馬をつないだと言われる「義経 馬つなぎの松跡」があります。」・・・”跡”・・・松は枯れたそうです。
「鵯越に到着した一行、松の根方に馬を繋ぎ鵯越の最高峰高尾山山頂に立った。見下ろした眼下には無数の灯火が広がり、怪しく輝きながら義経一行の無謀ともいえる戦略を嘲笑っていた。」

残念ですが、高尾山山頂には行けず、義経と同じ景色を見ることはできません。

山頂から、義経が見た景色については、少し後(*10)で述べますが、その前に、平家の陣の位置についての考察です。

(1)東の位置
東の木戸が生田の森にあり、南北方向に柵が設けられていたと考えられます。
生田の森は、現・生田神社辺りで、生田川から大倉山辺りまでの大きな森だったようです。
柵を設け、木戸を設置すると、総重量20~25Kgの武器や武具を装備した騎馬武者は、木戸以外を通過できないそうです。
東から来る源範頼軍に対して、平知盛(清盛の四男)と副将軍重衡(清盛の五男)は、平家本陣から生田の森に出陣します。ここが両軍の東の位置です。
生田神社境内には、ここが生田の森で、一の谷の合戦が行われたという内容の看板があります。

(2)西の位置
西の木戸の位置がはっきりしませんが、板宿(JR新長田と鷹取の間)より東だと思います。
平家は西あるいは北西からも源氏軍が来ることを想定していたと考えられ、その対策の一つとして、加東市の三草山に陣を構えていました。
当時、現在の地名で、太山寺(たいさんじ)(西神ニュータウンあたり)から、長田へ来る街道と、板宿に来る街道があり、その両方に対応し、陣を構えたと考えられます。
平盛俊
太山寺から長田へ来るルートに対応し、古・明泉寺(*11)に陣を構えたと考えられます。
平忠度
陣の位置がはっきりしませんが、駒ヶ林(JR新長田の南)で討たれています。太山寺から板宿、あるいは明石→塩屋→須磨から源氏軍が来ても対応できるので、板宿辺りに陣があった可能性が高いと思います。(*12)
*11:平盛俊と古・明泉寺
現在の明泉寺は、長田神社から丸山に向かう道の明泉寺橋から450m坂を上がった所にあります。古明泉寺の詳細な位置がはっきりとしないのですが、さらに坂を1.6Km上がった所に”大日丘”という地名があります。現明泉寺 は大日寺とも言われ、私の母や叔母は、現明泉寺を”大日さん”と呼ぶことと、寺のブログから、古明泉寺はここだと考えられます。先に説明した、合戦の前夜に義経が平家の陣を見下ろした高尾山は、そこから2.3Km北北西です。
詳細は後述しますが、平盛俊は、古明泉寺から1.6Km+0.45Km坂を下った明泉寺橋を左折し、100mの位置(名倉町2に平盛俊塚がある)で討たれています。
*12:平忠度(たいらただのり)
源平ごちゃまぜの状態の中で、源氏のような顔をして東向きに行進していたのに「お歯黒」をしているのを見破られ、平家だなと言われて岡部忠澄に討たれたと言われています。討たれた場所は「駒ヶ林」(JR新長田の南)(胴塚と腕塚があり、腕塚町という地名もある)だから、大和田の平家本陣まで、あと少しだったと考えられる。平家の陣の西の端が須磨(あるいはさらに西の須磨浦公園)だとしたら、忠度が、須磨から駒ヶ林まで(距離3Kmあるいはそれ以上)正体を見破られずに行進するのは難しいだろう。忠度の配下の人間は、全員関西(京都)弁か九州弁で、源氏軍は全員関東弁だ。挨拶も世間話もせずに並進できないだろう。このことを象徴的に「お歯黒」と表現されているのだろうと思います。須磨より東の板宿あたりに陣を張っていた可能性が高い。
オマケの話
最近は聞かなくなりましたが、無賃乗車を「さつまのかみ」と言いました。この人の官職は薩摩守(さつまのかみ)で、薩摩守平朝臣忠度(ただのり)が語源だそうです。

(3)義経のその後
(*10)高尾山山頂から義経が見た景色
GoogleMapやその他の地図ソフトから、近辺の標高などを考慮すると、東から順に、生田神社は山影になりそうですが、ハーバーランド(当時は海かな?)あるいは南京町辺り(当時は海岸かな?)は見えそうですから、平知盛軍の最後尾は見えたと思います。
正面に、大和田泊の平家本陣、右手前に、古・明泉寺に陣を張った平盛俊軍、その向こうに平家の西の端の平忠度軍が見えたと思います。

現在、高尾山山頂に電波塔のような施設があり、金網で囲まれており、立ち入りできず、義経と同じ景色を見ることはできませんが、その1.8Km南南東の鵯越大仏展望台からは、市街を見下ろすことができます。

展望台からの景色 左図は大仏展望台からの景色です。 高尾山山頂の標高は403m、大仏展望台は220mですから、迫力が全然違うし、目の前に邪魔な山(ひよどり展望公園)が現れます。

下の写真は、展望台上で場所を変えながら撮影した景色です。
ハーバーランド ①=ハーバーランドのホテルオークラ


兵庫駅 ②=JR兵庫駅のホームの西の端あたり
③=ノエビアスタジアム(サッカー場)
④=②から西へ300mのビル

東から①、②、③、④と並んでおり、①と②の間に、大和田泊がありますが、見えているのか、前の山が邪魔で、見えていないのか分かりません。
大和田泊までの直線距離は、ここ大仏展望台から4.5Km、高尾山山頂から6.1Kmです。
(参考情報=大仏展望台ーホテルオークラ=4.6Km、大仏展望台ー②=3.9Km、ホテルオークラー大和田泊=2Km)

標高断面 夜明けと共に、義経は大和田泊の平家本陣の方向に坂を下ったと考えられます。左図は、まっすぐに下った場合の地形断面(垂直方向の尺度は5倍)です。
ひよどり展望公園辺りの勾配が最も大きく、0.19以上です。現在はトンネルがあり、車で容易に下れます。

現在の道路では、鵯越南出入口から山麓バイパスの支線(無料区間)へ出ます。南出入口には、”史跡鵯越”の石碑がありますが、盛俊の陣を大日丘公園とみなすと、公園までの距離は500mです。南出入口を通過すると、盛俊軍に気づかれます。義経はもっと東寄りのコースを通ったと思いますが、GoogleMapでは、そのような道がありません。きっと、”鹿が通るような道”を下ったのだと思います。

三差路 三差路 高尾山を下った義経は、会下山(エゲヤマ)の手前の平地になった三差路で、猪俣範綱軍を右(西)(名倉町方面)(道路標識では板宿方面)に差し向け、自分たちの背後を平家が襲わないようにして(*13・・・そう考えた理由を後述)、自分たちは左折し(東へ向かい)、坂を下ります。

菊水10 坂を下った菊水町10を右折した。ここは会下山という東西に長い丘の陰になり、平家本陣(市街地)から見えない。

注意・・・菊水町10は、車は時間制限で右折禁止です。右折可能であっても、追突される危険性が高い交差点です。右折後も、一方通行が多く、少し複雑に左折右折しないと、熊野橋へ抜けられません。

義経は、ここで、進軍を停止し、時が来るのを待ったと思います。そう考えた理由を次項に示します。


(4)知盛敗走
①知盛は、合戦開始後2時間前後で敗走した。
②知盛は長男知章と共に敗走し、知章が犠牲になっている間に知盛は逃走し、大和田の本陣に戻った。
知章墓 ③知章の墓は、 長田区の現・明泉寺にある。明泉寺の寺伝によると、墓は寺の少し北・モンナ池の畔の藪の中にあったのを(多分、昭和初期に)拾い上げて、境内に移し供養したとのこと。
石碑=孝子 武蔵守平朝臣知章

ということで、知盛は、生田の森から直接(最短で)大和田の本陣には戻らず、現・明泉寺前を経由して戻った。
参考情報・・・生田神社からそれぞれまで、現在の道路での道程
生田神社→大和田泊まで最短コース=3.7Km
生田神社→山手→夢野町2→現・明泉寺→長田神社商店街→柳原→大和田泊=10.7Km

義経軍は少数であるのに、知盛軍が敗走した理由を考えました。
義経は会下山の陰で、知盛軍が前面の源範頼軍に集中するのを待ち、多分合戦開始後、1時間前後経った頃に会下山の陰から飛び出し、旧湊川の畔(現在の熊野橋辺り)に出て、そこを南下した。
現在の神戸電鉄湊川駅前=兵庫区役所前辺りで、正面1.7Kmに大和田泊の平家本陣を見て、その右手前に大きな湖(これが一の谷)を見たと思います。義経は、その先、現・湊川トンネル(明治時代の湊川は天井川で、トンネルの上を流れており、多くの土砂を兵庫港へ運び、港が浅くなるので、会下山にトンネルを掘り川筋を変えて、旧川底を新開地という歓楽街にした。当時は天井川ではなく地面を流れていた)辺り(あるいはもう少し南)を左折し、川を渡り、現在の兵庫県庁辺りで知盛軍の背後に迫ったのだと思います。

西国街道がJR神戸駅前(北側)→元町商店街→大丸前を通っており、その北側は生田の森だったと考えられます。義経は、西国街道を一気に走って知盛軍に突入したか、西国街道近くの森の中を進み、知盛軍に近づいたと考えられます。

自軍の背後つまり大和田泊の本陣との間に義経軍が現れ、知盛(軍)は、西に配置した平家軍を破ってきたにしては早すぎるなと思いながらも、そうかもしれない、しまった挟まれたと思い、反射的に山側へ逃げたのだと思います。(この辺りの西国街道は海岸近くを通っていたと考えられるので、義経が西国街道を押さえると、海側へは逃げられない。)
生田神社を北上すると、山麓線(北野町→平野→夢野町を通る道路)があり、2.4Km西には、平清盛の屋敷(雪御所)跡があり、この辺りの地理にも明るかったでしょうし、どこかを左折したら(どこを左折しても)、大和田泊に戻れると考えたでしょう。きっと、左折のチャンスをことごとく源氏軍に阻まれ、これ以上西には行けない、現明泉寺前を南下し、大和田の本陣に戻ったのだと思います。

オマケの話
生田の森の知盛軍は、多くの騎馬武者や雑兵で構成された群衆だと思います。前面の源氏軍に集中している最中に、突然背後にも源氏軍が現れたら、群衆全体がパニックになり、指揮官の指示の有無に関わらず逃走しようとすると思います。その人の流れは、指揮官である知盛には止められなかったでしょう。義経は、そうなることを想定して、この作戦を実行したのだと思います。

これが冒頭に言った、「敵が来るとは思わなった崖から源氏軍が現れて、不意を突かれ、海が迫っており逃げ場を失い、平家は負けた。」の真相だと思います。

おまけの話・ 戦いの始め方
①木戸を挟んで源平両軍が一定の距離を置いて睨みあいます。
②矢合わせと言って、両軍が一斉に矢を斜め前方に放ち、敵陣に撃ち込み続けます。これが戦いの始まりです。
③ある程度の時間経過後、源氏の元気な騎馬武者が2~3歩前へ出て、「やあやあ我こそはXXの(あるいはXXの子供の)XXである。木戸から出てきて、正々堂々、勝負しろ。」と大声で叫びます。「・・・・・・」「出てこぬのか、弱虫め!」とか言って元の位置に戻ります。
④別の騎馬武者が、同じことを繰り返します。
⑤何人(何回)か繰り返します。
平家物語によると、突然、源氏の若い騎馬武者が1騎、木戸から突入し、その辺りを駆け回って出てきます。「誰も相手をせぬのか、臆病者め!」と叫びます。
⑥再度、木戸内に突入した時、木戸を閉められ戻れなくなります。これは危ないと、源氏軍が一斉に木戸へ突入し、戦が始まったようです。
さて、戦が始まった②から1時間前後経っているのではないでしょうか。一斉に突入した時に、大きな叫び声をあげたはずで、これを2.4Km離れた会下山の蔭で聞いた(あるいはそれが聞こえる位置まで誰かを忍ばせた)義経は、会下山の蔭から飛び出し、平知盛軍の背後に迫ったと考えられます。

狭義には、高尾山を下ってから、会下山の手前の最初の三差路までが、鵯越の逆落としですが、私は、高尾山を下ってから、知盛軍の背後に現れるまでの道程全体が鵯越の逆落としだと思います。

小休止
ここで、勝負あり!と思います。少し時間を巻き戻し、京での出来事を紹介します。
義経は、鵯越の翁と呼ばれた土御門通親を訪ね、甥である久我(こが)興延を紹介された。「平家の陣地に忍び込みたい。」と言ったところ、「そこには道はない。鹿が通る道ならある。」と言われたらしい。だとしたら、「鹿が通れるなら馬も通れる」という有名なセリフは、その時に言ったと考えられる。
久我興延は、鵯越を狩場としていた人物で、彼に鵯越の道案内などを依頼した。私の推察ですが、彼を交えて、作戦会議を開いて、
①合戦前夜に高尾山頂上から、街を見下ろし、平家軍の全容・配置を把握する。
②鵯越を下り、会下山の手前の最初に平地になった三差路で、誰か(小グループ)を右(板宿方面)に向かわせ、名倉町で、平家軍が来て義経軍の背後を襲うのを阻止する。
③自分たちは左方向に坂を下り、菊水町10を右折し、会下山の陰で、時が来るのを待つ。(生田の森で対峙している平知盛軍が前面の源範頼軍に集中するのを待つ)
④その時が来たら、会下山の陰から出て、熊野橋辺りから湊川沿いに南下し、湊川トンネルあたり、あるいはもう少し南で左折し、知盛軍の背後を突く。
という作戦をたてたと考えられる。
偶然ですが、梅村伸雄という郷土史家が2004年4月25日に「家系研究協議会」で講演された記事をみつけました。その内容によると・・・
義経を鵯越に案内したのは興延だが、興延は神戸の白川に存在した旧家の矢田氏(応神天皇皇子の額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコノミコ)の子孫)の娘が、京の公家・源雅通の子供・通直を産み、通直は白川村(高尾山は白川村から東へ4Km)付近を開発したが、その子が興延で、京都で叔父である土御門通親の案内で義経に会い、鵯越の道案内などを依頼された。興延はその時の功で、鷲尾姓を賜った。
・・・だそうです。鷲尾家の子孫の方に、茶道を習ったという方がいました。900年以上も、家系が明確なようです。

オマケの話
上の話を知って、思ったことがある。
「先日の一の谷の合戦における、あなたの活躍を褒め称えるために、今後、”鷲尾”の姓を名乗るがいい。」と言ったのは誰だ?
後白河法皇?
官位とか土地とか金一封とか、副賞はなかったのか?
興延は、そんな副賞をありがたいとは思わないほど裕福な家柄だったのだろうか。
姓をもらった興延は、ありがたく思ったのだろうな。でなければ、900年以上経った現在にその姓を名乗る家は存続していないだろう。

政府の要人(多分。後白河法皇)が、興延が合戦の勝利におおいに貢献したと評価したことからも、この作戦の中心に、久我興延がいたと考えられる。

話を一の谷の合戦に戻そう。
(5)明泉寺前を通る異常さ
敗走する知盛が、生田神社を北上し、山麓線を西へ進むと→夢野町2→右折→旧夢野墓地前→①神戸電鉄長田の高架→道路は左にカーブ→②右側に信用金庫がある→③名倉小学校前の交差点になります。
本来なら、知盛はそのまま直進したかったと思いますが、知盛(軍)は、その先に、源氏(軍)がいるのが見えたのだと思います。
名倉小学校前の交差点の200m先には、現在、平盛俊の塚があります。盛俊は、古明泉寺に陣を張っており、源氏軍に夢野を通過され、様子を見に行こうとし、名倉町で、猪俣範綱に討たれました。(前述*13)猪俣範綱は、義経軍に属する武士で、鵯越を下った時点で、名倉町方面に差し向けられたと考えられます。猪俣範綱は盛俊を討った後も、その場に留まっていたと考えられます。
義経が、会下山の陰から出て、熊野橋辺りから湊川沿いに南下し、湊川トンネルを越えた辺りで左折したのが平家本陣から見え、本陣からの伝令により、古明泉寺の盛俊に伝わったと考えられる。盛俊は全軍を引き上げず、少数で様子を見に、山を下り、名倉町2で討たれたと考えられる。

当時は、住宅は少なく、今ほどではないでしょうが、名倉町から集落内を抜けて現明泉寺前へ行こうとすると、集落内の道幅は狭く、当時も曲がりくねっていたはずで、地元民以外が通り抜けるのは大変です。

オマケの話
細かい話ですが、名倉町から右折し集落を抜けるチャンスは3ケ所です。地形上の制限は、当時も今も同じだと思います。
①現神戸電鉄の高架をくぐってすぐ。しかしここからは、道路がカーブしており、まだ、源氏軍の姿は見えません。
②名倉小学校の前の信号(交差点)との中間の右側に、信用金庫がありますが、ここを右折したと思います。ここを進入した先は、曲がりくねっています。
③名倉小学校前の信号(交差点)を右折すると、現・明泉寺迄700mで道は単純ですが、この交差点から、盛俊塚まで、200mです。もっと手前で知盛は源氏軍の存在に気付くはずですから、200mまで接近しない(できない)でしょう。

明泉寺前 ということで、知盛は、現信用金庫辺りから集落を通り抜けたと思います。
集落内には、谷底を流れる川と、小さな山が複数あり、これを避けるように、網目状に道路があります。大人数が殺到すると、敵味方が道路で鉢合わせし、多分、当時も一か所だった橋に殺到し、橋を渡った先は幅の狭い峠道の上り坂(左図参照)で、逃走する速度が極端に遅くなり、ふん詰まりになり、追手である源氏に容易に追いつかれただろうと思います。その状況の中で、知章が討たれたのだと思います。

注意・・・この橋は一方通行ですから、車で、名倉町側から通り抜けできません。
車で明泉寺へ行く場合は、迂回するため直進し、宮川町9を花山町方面(宮川町9はやや変則的な交差点ですが、広い道が花山町方面への道)へ右折し、その中間位置を右折し、堀切を経由して明泉寺へ行ってください。


明泉寺前の峠を越えれば、あとは一本道です。
現明泉寺前→ 坂を下り→明泉寺橋→長田神社商店街→高速長田の交差点を斜めに左折(ここから柳原までは、旧西国街道です。当時と同じ位置に道路があると考えられます)→少し先の交差点を斜めに右折→JR兵庫駅前→柳原の交差点を右折→JRの高架をくぐった先を斜め右に(斜め左が西国街道で、知盛は斜め左の道を進んだと思いますが、車は一方通行で進入禁止)→阪神高速の高架をくぐった先を斜め左に

大和田泊 →運河の手前を左折→運河の先に来迎寺(赤い矢印の下)があり、ここが大和田泊です。今は島ではなく、陸続きです。



ここまでの話の全体図

全体図 当時の海岸線は、私の想像です。当時の道路も現在の道路と近い位置にあるだろうと考えています。西国街道は、GoogleMapを拡大して、西国街道と表示されている位置を探した結果です。
盛・・・平盛俊の塚(討たれた場所)



5.搦手軍のその後
須磨寺のHPによると、
義経軍の陣地であった。
境内に平敦盛の首塚がある。首洗いの池もある。
境内に義経腰掛の松がある。
境内に弁慶の鐘がある。・・・弁慶が大きな(重い)鐘をかついできた。(作り話くさい)

上記を満足するには、生田の森で知盛の背後をついた義経は、すぐに、合戦場全体を横切って、須磨寺に来なければならない。仮に、勝敗が決したとしても、多くの残党がいるだろうし、そんなリスクの高いことはしないだろう。
私は、これを以下のように考えます。
平敦盛の首塚と首洗いの池があるが、彼の胴塚は、須磨浦公園内にある。須磨浦公園で敦盛は討たれて、手柄の報告のため、討った武将(熊谷直実)が、首を須磨寺に持ってきて、首を洗い、手柄の報告をした後で、塚を作って供養した。つまり、ここは、合戦終了後の論功行賞の事務局が置かれたと考えるべきだ。ということは、搦手軍本体は、太山寺(西神ニュータウン)から、現・須磨離宮公園の西を通り、板宿方向に攻め込み、平忠度を討ちとり、勝敗が決した後、須磨寺に戦後処理の事務局を置いた。太山寺から須磨離宮公園への道のすぐ右側(西)に、須磨寺がある。
ここに義経がいたかどうかは疑わしい。弁慶が引きづってきたと言われる大きな鐘があるが、人の力で移動できないのは明らかで、義経腰掛の松とセットで作り話だろう。完全に安全が確保されてから、来たかもしれないが、平家の残党が完全にいなくなるのには、かなりの時間がかかると思われる。

6.一の谷
現在のJR兵庫駅から新開地に至るあたりに、大きな湖があったと考えられる。新開地は、昔は、旧湊川が流れており、湖があっても不思議ではない地形だ。さらに、JR兵庫駅の400m北に、大開通という大きな通りが東西に走っているが、JR兵庫駅に近い辺りは、標高が低く、 1960年頃は、台風や集中豪雨の都度、床下浸水が多発した。(それ以前のことを私は知らない)兵庫駅の方が海側にあるのに浸水しなかった。元々、湖であった所を埋め立てたのかもしれない。そのような地形は、周りに降った雨水が集まりやすい。

現在の地名で表現すると、大開通1~8が一の谷の湖があった範囲です。床下浸水したのは6~7丁目。当時の湊川は大開通8を通っていたという情報がありますから、その手前まで。
大開通4辺りの地名を紹介すると、北から、上沢通、下沢通(ここまでは緩い斜面)、中道通、水木通、大開通、少し飛んで、永沢町、柳原で、大開通以外は、なんとなく水絡みです。中道通の北に当時の湊川があり、西向きに流れ、中道通の南に一の谷の湖があり、柳原は、湖の南の湖畔と考えれば、地名のつじつまが合いそうですが、私のあてずっぽうです。

多くの文人、歌人が、文章や歌を残している。
一遍上人・・・津の国兵庫島(経ケ島と呼ばれる人工島)へ着いた時の情景が記され、「銭塘(銭塘江と西湖*14(サイコ))三千の宿眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」

西湖 *14西湖(サイコ)・・・左の写真。世界遺産。始皇帝の時代の史記に登場。杭州(上海から南西に距離170Km)にあり、杭州は1127-1280年には都が置かれていました。(一の谷の合戦は1184年)
平清盛は、左図のような雰囲気の湖にしたかったのかと思います。


紫式部、芭蕉、門部王も、歌や文章を残しています。兵庫島(経ケ島)のすぐ前の海岸を当時の西国街道が通っており、少し北西に行けば、一の谷の湖と当時の湊川があり、絶景だったようです。GoogleMapを拡大すれば、西国街道の位置が表示されます。
経ケ島は、平清盛が改修工事に力を入れた島で、ここを拠点に、中国との貿易などを行った港です。
現在は、島ではなく、陸続きです。当時の島の上に、来迎寺があり、平家というより平清盛ゆかりの人達の供養の施設があります。

オマケ・・・知盛の気持ち
生田の森で、突然、義経が背後に現れ、訳が分からない内に、多分、命令した訳でもないのに平家軍全体が退却し始め、本陣への退路をことごとく源氏軍に遮られ、名倉町で坂を下っている最中に、再び、前方に源氏軍が現れ、悪い夢を見ている気持ちだったと思います。あれよあれよと思っている内に長男知章を失い、現明泉寺前から坂を下り長田神社を過ぎた辺りで、右前方で忠度軍が戦っている気配を感じ、参加(応援)する余裕もなく、本陣に逃げ帰ったと思います。
普通の神経の持ち主なら、再起不能の状態です。多分、全体のストーリーを理解できないまま、”なぜだ。どこで誤ったのだ”と悔やみながら、一生を終えたのではないかと思います。

ここから先は、歴史オタクのコメントです。そんな内容が好きな方は、お読みください。

オマケの話
源氏
興延の父の父は源雅通で、興延の叔父は土御門通親だ。つまり、土御門通親は、興延の父の弟だ。興延の父の父は源雅通だから、興延も源氏だ。考察本文では、久我興延と紹介したから、興延の父は久我で、その弟は土御門で、兄弟で違うものを名乗っているのだ。土御門をネットで検索したら、村上源氏久我庶流の家柄とある。頭が混乱するが、 多分、父の父の源雅通の源は”氏”(うじ)で、その下に、”朝臣”(あそん)という”姓”(かばね)がついて、源朝臣雅通が正式な名前なのだろう。従四位以上で皇籍を離れた人(家?)に源朝臣を与えたらしいが、源朝臣全体を久我とか鷲尾に改めるのだろう。源朝臣と鷲尾とどちらが正式(フォーマルな)名前なのかが分からない。 私の理解では、興延は村上源氏で義経は清和源氏だ。どちらも源氏だからといって、源氏対平氏で戦っているのではない。源氏も平氏も、祖先は天皇だから、戦うとしたら”家”単位で戦っているのだ。
現在の我々は、「氏名」と「姓名」を同じものだと扱うが、厳密には違うものなのだ。

オマケの話
騎馬武者
鎧兜を着た武者が馬に乗り疾走する姿と言われると、相馬野馬追やどこかの神社の流鏑馬を思い浮かべるでしょうが、源平合戦の騎馬武者は、あれに近い迫力で疾走したのでしょうか?
現在、我々が見る”疾走する馬”は、サラブレッドです。源平時代の馬は在来種(日本固有の種類)です。
      体高cm    体重Kg
在来種  125~135 350~400
サラブレッド 160~170 450~500
北海道にいた在来種の”道産子”は、在来種としては大型で、200Kgの荷物を運べたそうですが、野間馬(愛媛県)は、蹄鉄なしでは、70Kg以上は運べなかったそうです。(すべての品種の積載量が分からないが)
平知盛の身長・体重が分からないが、160cm以下で、60Kg以下程度だろう。武具+武器=20~25Kgらしいから、馬は80Kg前後を載せて走らねばならない。”戦場を疾走する”という姿とは程遠いのではないだろうか。義経軍に追いかけられながら、生田神社から→北野→山手→夢野→明泉寺前→長田神社→大和田泊=11Kmを逃げる知盛の姿は、夢の中で怖いものに追いかけられているのに体が動かない自分の姿と重なる。

オマケの話(追加の考察)
(1) 東の木戸
考察本文の地図で、東の木戸の位置を何となく生田神社の鳥居辺りか西国街道(元町商店街から大丸前を通る道)にあったのかを迷ったが、平家と言えど、西国街道を通行不能にして、生田神社内に木戸を設けられないだろう。
柵の北の端は、山で、南の端は海であろうから、通行規制の効果は大きい。

(2) 西の守りと西の木戸
太山寺から、古明泉寺前を経由して長田村へ行く街道と、古明泉寺の手前から板宿に行く街道があったらしい。
平盛俊が、古明泉寺に陣を構えたが、なぜ、太山寺に陣を構えなかったのだろう。そうすれば、長田へ来るケースと板宿に来るケースの両方に対応できた。
後白河法皇が天皇時代に太山寺に行脚しているし、僧兵で武装していたらしい。太山寺は天台宗(本山は比叡山延暦寺)のお寺で、平家が陣を構えるのを拒否したのだろうな。古明泉寺は焼け落ちたが、太山寺は焼けなかったようだ。

古明泉寺を経由して長田への街道には陣を構えたから、板宿へ来るコースに陣を構えなければならない。→明石→塩屋→須磨→板宿の可能性があるから、太山寺→板宿の街道より、東に陣を構えねばならない。木戸を構えるなら、駒ヶ林(新長田)(平忠度が打たれた場所)辺りでなければならない。
柵の南の端は海であろうが、北の端は、山までは遠い。一番近いのは、高取山の麓だ。しかし、これでは古明泉寺→現明泉寺→長田神社商店街へ来る源氏軍は、素通りだ。やむなく、古明泉寺に陣を構えたのだろう。
そう考えると、太山寺に陣を構えられなかったのが先で、その状況から、西の木戸の位置が駒ヶ林辺りになったと考えるべきだ。

(3) 逃走する知盛軍の人数
知盛軍は、生田神社→山手→夢野→現明泉寺前→長田神社商店街→大和田泊=11Kmを走った。当時の騎馬武者にとっても、決して短い距離ではないだろう。歩兵の家来がいたなら、なおさらだ。マラソンで11Kmは、素人には走れない。武具と武器を装備していたらなおさらだ。知章が討たれた現明泉寺辺りで7Kmとして、何人が知盛と一緒にいたのだろうか気になる。実際には、走ったのではなく、知盛の周りに人垣を作って、丸い団体として、ゆっくりと移動したのだろうな。周りを少しずつ削られて、徐々に小さな固まりになりながら。名倉町から現明泉寺あたりで、決定的に道幅が狭くなり、一気に崩れて、それ以降、知盛は数頭の騎馬武者で一気に駆け出したのではないか。長田神社商店街を出たあたりで、右の方で忠度軍が、源氏と戦っていた可能性があるが、それに加勢する元気と能力(手勢の数)はなかっただろう。

(4) 盛俊と忠度の墓
盛俊
名倉町2に盛俊塚がある。幅50cm以上、高さ1m以上の立派な石碑です。小さな公園の中に立っていますが、私有地のような気がします。さらに、板宿に、門があって玄関があって屋根がある小さな家屋のような墓があります。誰の費用で建てたのだろうか不思議です。
盛俊は伊勢の平氏です。ネット検索すると、”平家に仕える伊勢平氏”と書かれている。つまり、平清盛一族(彼らも伊勢平氏)に仕える武士と考えられます。一の谷の合戦で盛俊が戦死したことを知った実家の人が、誰かを派遣し、名倉町2に土地を買ったか、その近くの人にお金を託し、塚を立てて供養を依頼したのではないだろうかと思います。名倉町2は墓参りには不便なので、忠度の墓参も同時にできる板宿に墓を建てたのではないかと思いました。
まったくの、オセッカイな見解です。
脱線・・・幼稚園か小学校の低学年の頃、地蔵盆の時に、よく、母の実家に行きました。盛俊塚には地蔵盆の飾りと催しがあって、実家から400m位です。神戸のこの辺りの地蔵盆は、子供なら誰でも、線香を持って行って、火をつけてお参りすれば、湯のみ茶碗一杯の”空豆を炒ったお菓子”がもらえました。それをハンカチに置いてもらい、4角をくっつけてねじってポケットに押し込みました。2ケ所回れば、左右のポケットは満杯です。ポケットを何とかして、3ケ所目に行こうなんて考えもしませんでした。
盛俊塚は大きな石碑(2m以上)だと思っていたのですが、最近見に行ったら、それより少し小ぶりの石碑でした。母は、その石碑を”盛俊さん”とさん付けで呼んでいました。

忠度
2024年12月13日、近くを通るついでに、忠度塚にお参りした。腕塚と胴塚がある。

胴塚 胴塚 ・・・3mX5m程度の敷地のありふれた塚だったが、案内看板に、胴塚(首塚)と書いてあった。ネット上で、腕塚と胴塚が300m位離れており、首塚の説明を見つけられなかったので、首がない胴かと思い、残酷なことだと思っていたので、(首塚)の文字を見て、ホッとした。



腕塚 ・・・不思議が一杯だ。

腕塚1 ⑮=建坪15坪位の家屋
隣=幅1m弱の路地を挟んだ隣(奥)の家
扉=隣の家の塀に腕塚を向いた扉がある。これとは別に、玄関の前の扉もある。


腕塚2 ⑫=建坪12坪位の家屋

敷地の中に、建坪15坪程度の一般的な家屋と、12坪程度の家屋がある。プラス空き地(庭)だから、随分大きな面積だ。

大きい方の家は8畳以上の仏間があり、大きな位牌が3つ祀られている。真ん中は、忠度さん、左は、御家来御一同様で、右側は、忠度?家御一同様で理解しきれず。時々、10人位で畳に座って法事でもする雰囲気だ。小さい方の家屋には20体前後のお地蔵さんがいる。

紀伊半島の新宮から熊野川沿いに北上すると、国道沿いに「平忠度生誕の地」という大きな看板が、2回、現れます。この資料を作るまでもその看板を見ていたでしょうが、何者か考えもしませんでした。清盛の弟になる子を身ごもった女性が里帰りし、忠度を産み、成人になった後に、熊野詣の時に清盛が迎えに来て一緒に京に行ったのは、800年以上昔の話です。実家の集落にとっては、大切な息子だったのだと思います。

明石市山陽電鉄人丸駅近くにも忠度の墓があり、この辺りで戦い、討たれたとあるが、上記のストーリーから大きく外れるので、無視しました。

腕塚の面積が広いこと・・・一の谷の合戦の直後に、多分、実家の人がこれほど大きな塚を作ったのだろうと思っていたが、中にある石碑の一つに、「・・・腕塚堂改増修築発起人 灘新在家*****」と書かれていた。理由や規模などは分からないが、神戸在住の人達が、設立当初より面積を増やした可能性が高い。
忠度が亡くなったのは800年以上前だから、今見る建屋は、当然、それ以降に建て替えあるいは増設されたものだ。
第二次世界大戦や阪神淡路大震災で、いずれもこの地域は大きな被害だったはずだ。それを乗り越えて、これだけの規模を維持しているのに、ある種の疑問と尊敬の念が沸いた。


気になったこと (おせっかいな想像)
腕塚町 腕塚町という地名のエリアは東西に長い(神戸市の町名は東西に長い)が、その中心部と腕塚は480m離れている。常識的には、800年前に腕塚ができて、それが地名になり、その後神戸市がそれを含んだエリアを腕塚町と名付けたと考えられる。そう考えると、元々の腕塚が邪魔になったので、場所を移した可能性が高い。左の地図で”大正筋”と示した道路は、昔(1960年以前)は、”西新開地”と呼ばれた繁華街です。繁華街を整備するために、その辺りにあった腕塚を、現在の位置に移したのではないだろうか。

おまけの観光案内
駒ヶ林をGoogle Mapで調べている時に、以下の”碑”を見つけた。
清盛上陸の地
清盛は宮島などを訪問した後、この辺りに上陸したらしい。
いかなごのくぎ煮発祥の地
いかなごのくぎ煮はこの辺りから播磨灘一帯の春の風物詩です。
いかなごの解禁日があり、体長3cm位の幼魚が販売されます。私の母はこれを1Kgとか2Kgとか、魚屋に予約しそれを自宅でくぎ煮にし、送ってくれていました。生のいかなごと生姜を醤油と砂糖で佃煮のように炊く(煮る)と、地面に落ちた錆びた古釘のように”く”の字に曲がるので、”くぎ煮”というのだと思います。いかなご漁は1000年以上前からあったそうですが、いつからくぎ煮が広まったかは定かではないそうです。1935年にはあったそうですが、重労働である漁師向けの濃い味付けだったものを1980年頃に、少し薄い味付けに変えて、広く普及したと書かれていました。
駒ヶ林には、税関の支所のような役所があり、砂糖が手に入りやすく、その砂糖と醤油で味付けした”くぎ煮”が古くから食べられていたという記事もありました。
いかなごは、解禁日から3日経つと、体調が4cmくらいになり、あっという間に、10cmを越えます。解禁直後以外は、浜で湯がかれて販売されます。6~8cm位の時期に購入し、網の上で焼いて、南蛮漬け程度の調味液に漬けて、しばらく寝かせてから食べるのが好きでした。
残念ですが、2020年以降は漁が不良です。下水などの処理が進み、海水の”栄養成分”が下がり、海がきれいになったことが原因ではないかと言われています。ということは、それまでにいかなごが食べていた栄養分の大部分は、何だったのかと考えると、それ以上は考えたくない現象です。

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このプレゼンは3部構成で、続き=「壇ノ浦の戦いの真実」があります。
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