このホームページは、一の谷の合戦で敗れた平家が、屋島に集結し、そこでも敗れ、下関の壇ノ浦で海底に沈み滅亡したという歴史上の定説に疑問を感じ、安徳天皇と平家の大将・平知盛の一の谷以降の行動を推察したものです。あくまでも個人見解です。
しかし、おかしいと思いませんか? 一の谷の合戦で惨敗し、屋島でも敗れ、それでも戦を継続しますか? 私が平家の責任者だったら、早々に虎の子の安徳帝をどこかに隠し、御座船には同じ年頃の子供を身代わりに乗せて壇ノ浦へ向かうでしょう。 安徳帝の信ぴょう性を増すために、安徳帝の母・徳子も同乗しており、徳子は本物だったようで、京へ送られ、大原の寂光院で余生を送った(建礼門院)ようですが、徳子は、海に飛び込んだが、着物に空気が入り沈まないうちに救い上げられたというのは、そうなることを期待しての行動だと思います。さて、安徳帝は二位の尼(安徳帝の祖母)に抱かれて海に沈むのですが、二位の尼も身代わりだった可能性があります。(後述)・・・二位は従二位(官位)
その奥に、安徳帝の陵墓(宮内庁管轄)があり、横倉宮(安徳帝の御所)を守っていたのだろう。 一般的には、知盛は、壇ノ浦で、船の錨の鎖かロープを体に巻き付けて、海に飛び込んだ(これは歌舞伎の世界かな?)か、自分の鎧の上にもう1枚の鎧を着て海に飛び込んだと言われている。 ここに二位の若姫の墓もあるらしい。壇ノ浦で沈んだのは、身代わりで、本人はここに住んでいたのだろうか。それとも、知盛達が壇ノ浦で亡くなった母を供養するために建てたものなのか。 看板に、”若姫”とあるのは、意味が分からなかった。壇ノ浦で、二位の尼(清盛の後妻)にしては若すぎる遺体が発見されたということか。安徳帝の身代わりの6才の子の母が、子供を抱えて沈んだのだろうか。 横倉宮(安徳帝の御所)と安徳帝陵墓参考地の詳細は、”越智、横倉宮”で検索してください。 http://www.town.ochi.kochi.jp/kankou/look/antoku.html 越智町の看板によると、一の谷の戦いの後、安徳帝(6才)一行は四国に上陸し、 1年数ヶ月どこか(私は祖谷のかづら橋近辺だと思う)で潜伏し、屋島壇ノ浦(屋島にも壇ノ浦がある)の戦いにはダミーを送り込み、そのまま下関の壇ノ浦にもダミーを送り込んだと読み取れる。その後23才(1200年)で病死するまで、越智で暮らしたと書かれている。馬場があり、乗馬の練習をし、蹴鞠もしたらしいから、平和に暮らしたと想像できる。 蹴鞠 ・・・鞠をどうしたのだろう。 ②誰かが作った。・・・馬革と鹿革があれば自作可能? ③誰かが買いに行った。? 看板によると、安徳帝は23才で病死したらしい。安徳帝の両親は、従弟どうしです。
越智町には、越智平家会があって、会報を発行し、越智平家祭りも開催している。 越智の社殿(多分、横倉山中の杉原神社)の看板
文治は1185~1190で、三年は、安徳帝が11才だ。 安徳帝が6才で四国に上陸し、1.5年どこかで暮らし、越智に来て3.5年後に横倉宮が完成したと考えれば、今までのストーリーと大差ない。 多少拡大解釈すると・・・1188年8月に、安徳帝の御所が完成し、その落慶法要に平家88名が参加した。これが四国に上陸した平家全員の可能性が高い。 後日(全員が亡くなった何年か後)、亡くなった人を祀る神社を建立し、横倉山にある古墳と社を調査し名前を確認できた人が78名で、その神社に合祀した。・・・と考えられる。 78名の中には、平知盛、二位の若姫の名前がある。2名共、壇ノ浦で入水していないと考えられる。 私が知っている一の谷の合戦で生き残った平家の武将は、全員、この中にいる。 古墳・・・横倉山に住んでいた人(知盛など)を土葬にしたものを古墳と言っているのだろう。 File:平家の宮(越智町)合祀名簿.jpg で検索してください。 この資料作成後に見つけたHPのURL。このHPの内容と微妙に異なる部分がある。 https://tosareki.gozaru.jp/tosareki/ochi/taira_tomomori.html・・・ 一の谷の合戦以降の行動がよくわかる。 https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2014/01/blog-post.html・・・横倉山中の社の看板の平家78名の氏名が明らかにされている。この名簿は出典が示されておらず、正式な資料としては扱えないとある。 補足・・・祖谷の平家屋敷の主は、後日、祖谷軍が豊臣秀吉の家臣の蜂須賀軍に敗れ、姓を”西岡”に変えたと報告した。当時の”姓”を調べたら、”堀川内記”というらしい。この名前が、この平家一門の看板の中にあるかを確認したが、なさそうだ。ということは、この看板の78名は、血縁関係にある平家一門(嫁に来た人を含む)と考えられる。
四国に上陸した一行は、地元有力者の協力で、どこかで1年半暮らしたようです。しかし、風の噂などで、安徳帝の存在が漏れるのを恐れ、もっと山奥に、主要メンバーだけで密かに引越したのではないだろうか。 祖谷のかづら橋と横倉宮との直線距離は、70Kmあります。 祖谷の平家屋敷のHPの記事 当家の由来 ・・・安徳帝の御典医として、平家の都落ちの時、安徳帝を供奉して屋島に逃げのびた。平家滅亡の後、残党と共に祖谷に入山し、医業を地元の人に施しながら、神官も兼ねていた。 後年、蜂須賀公の阿波入国の時(※1)は反旗を翻した祖谷軍の負傷者の治療に当たった。祖谷軍は敗れ、当家も罰せられたが、後に許され(※2)当地・西岡の名主となり姓を西岡に改め現在に至る。 ※1・・・1585年、秀吉の命で阿波(徳島)に入国した蜂須賀家が、祖谷軍を打ち破ったという意味だろう。 ※2・・・我々は、そもそも源平合戦時の平家だと説明し、平家=安徳帝の末裔で、尊敬の念も含めて、許されたのだろうな。 余談・・・かずら橋を切り落としても、祖谷軍は負けたのだろうか。切り落とさなかったのだろうか。 かづら橋は大小7~12あったそうです。 現在のかづら橋は、ワイヤーが通っており、それをかづらで隠しているそうです。 |
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