壇ノ浦の戦の真実

平知盛と安徳天皇を中心とした考察・・2025/09/20改定

このホームページは、一の谷の合戦で敗れた平家が、屋島に集結し、そこでも敗れ、下関の壇ノ浦で海底に沈み滅亡したという歴史上の定説に疑問を感じ、安徳天皇と平家の大将・平知盛の一の谷以降の行動を推察したものです。あくまでも個人見解です。
1.はじめに

天狗高原 天狗高原

高知県と愛媛県の県境に”天狗高原”があり、標高1355mにホテルがあります。非常に行きにくい(道が狭い)所です。Google Mapで、そのルートと近隣の観光地候補を探している時に、偶然、”平知盛の墓”を見つけました。さらに探すと、”平経盛””平資盛”の墓、”安徳天皇陵墓参考地(宮内庁管轄)”などが続々と見つかりました。ということで、その内容と私の考察を紹介します。

2.一の谷の後(私が平家の責任者だったら)
一の谷で敗れた平家は、屋島に逃れ、さらに壇ノ浦に逃げます。壇ノ浦でも敗れ、安徳帝を抱いた祖母(清盛の妻)が海に飛び込み海底に沈み、平家は滅亡します。これが世間の常識のストーリーです。
しかし、おかしいと思いませんか? 一の谷の合戦で惨敗し、屋島でも敗れ、それでも戦を継続しますか? 私が平家の責任者だったら、早々に虎の子の安徳帝をどこかに隠し、御座船には同じ年頃の子供を身代わりに乗せて壇ノ浦へ向かうでしょう。
安徳帝の信ぴょう性を増すために、安徳帝の母・徳子も同乗しており、徳子は本物だったようで、京へ送られ、大原の寂光院で余生を送った(建礼門院)ようですが、徳子は、海に飛び込んだが、着物に空気が入り沈まないうちに救い上げられたというのは、そうなることを期待しての行動だと思います。さて、安徳帝は二位の尼(安徳帝の祖母)に抱かれて海に沈むのですが、二位の尼も身代わりだった可能性があります。(後述)・・・二位は従二位(官位)

3.安徳帝の里・越知

旧看板 新看板

ネット上で、左上の写真を見つけました。左下の地図で示す地点にあるはずです。地図は、上方向が北ですが、この看板は、看板を南に置いて北から振り返るように集落を見た地図で分かりにくい。(看板の右下に「平家子孫一同」と書いてある)

場所 2024年8月に、この看板を探しに行きましたが、見つけられません。よく調べると、この看板は、旧道沿いにあり、現在はバイパスが完成し、普通に走ると、この看板の前を通過しません。我が家のカーナビは情報が古く、バイパスの完成前の情報で、現地でかなり混乱しました。バイパス沿いに、右上の看板がありましたが、旧道沿いに看板はありませんでした。


入口 墓地

左の写真は看板があったはずの集落への入り口と、入り口から見える集落内の墓地です。入り口の坂道は、非常に幅が狭く、車で入る気になりませんでした。Google Mapなどによると、細い道が続き、最終的には行き詰まりで、手前から、知盛(安徳帝の叔父)、少し入った所に、経盛(大叔父)、ずーっと奥に資盛(従弟)の墓がある。墓は、彼らがここに住んでいたという意味だろう。
その奥に、安徳帝の陵墓(宮内庁管轄)があり、横倉宮(安徳帝の御所)を守っていたのだろう。
一般的には、知盛は、壇ノ浦で、船の錨の鎖かロープを体に巻き付けて、海に飛び込んだ(これは歌舞伎の世界かな?)か、自分の鎧の上にもう1枚の鎧を着て海に飛び込んだと言われている。
ここに二位の若姫の墓もあるらしい。壇ノ浦で沈んだのは、身代わりで、本人はここに住んでいたのだろうか。それとも、知盛達が壇ノ浦で亡くなった母を供養するために建てたものなのか。
看板に、”若姫”とあるのは、意味が分からなかった。壇ノ浦で、二位の尼(清盛の後妻)にしては若すぎる遺体が発見されたということか。安徳帝の身代わりの6才の子の母が、子供を抱えて沈んだのだろうか。

横倉宮(安徳帝の御所)と安徳帝陵墓参考地の詳細は、”越智、横倉宮”で検索してください。
http://www.town.ochi.kochi.jp/kankou/look/antoku.html
越智町の看板によると、一の谷の戦いの後、安徳帝(6才)一行は四国に上陸し、 1年数ヶ月どこか(私は祖谷のかづら橋近辺だと思う)で潜伏し、屋島壇ノ浦(屋島にも壇ノ浦がある)の戦いにはダミーを送り込み、そのまま下関の壇ノ浦にもダミーを送り込んだと読み取れる。その後23才(1200年)で病死するまで、越智で暮らしたと書かれている。馬場があり、乗馬の練習をし、蹴鞠もしたらしいから、平和に暮らしたと想像できる。

蹴鞠 ・・・鞠をどうしたのだろう。
①戦の最中も持って移動していた。?
②誰かが作った。・・・馬革と鹿革があれば自作可能?
③誰かが買いに行った。?

看板によると、安徳帝は23才で病死したらしい。安徳帝の両親は、従弟どうしです。

横倉宮全容 知盛=清盛の四男/一の谷の合戦の大将
経盛=清盛の弟/敦盛の父
資盛=清盛の孫/三草山で義経に敗れた
二位の尼=清盛の後妻/知盛の母/清盛死亡後の実質的リーダー


越智町には、越智平家会があって、会報を発行し、越智平家祭りも開催している。

越智の社殿(多分、横倉山中の杉原神社)の看板

名簿 冒頭に
「文治三年八月安徳天皇に随勤し、横倉山に来られた平家一門88名中の氏名判明せる者(此の社に合祀する)」
末尾に
以上、78名の古墳又は社は横倉山中に現在ある
と書かれている。


文治は1185~1190で、三年は、安徳帝が11才だ。
安徳帝が6才で四国に上陸し、1.5年どこかで暮らし、越智に来て3.5年後に横倉宮が完成したと考えれば、今までのストーリーと大差ない。
多少拡大解釈すると・・・1188年8月に、安徳帝の御所が完成し、その落慶法要に平家88名が参加した。これが四国に上陸した平家全員の可能性が高い。
後日(全員が亡くなった何年か後)、亡くなった人を祀る神社を建立し、横倉山にある古墳と社を調査し名前を確認できた人が78名で、その神社に合祀した。・・・と考えられる。
78名の中には、平知盛、二位の若姫の名前がある。2名共、壇ノ浦で入水していないと考えられる。
私が知っている一の谷の合戦で生き残った平家の武将は、全員、この中にいる。
古墳・・・横倉山に住んでいた人(知盛など)を土葬にしたものを古墳と言っているのだろう。
File:平家の宮(越智町)合祀名簿.jpg で検索してください。

この資料作成後に見つけたHPのURL。このHPの内容と微妙に異なる部分がある。
https://tosareki.gozaru.jp/tosareki/ochi/taira_tomomori.html・・・ 一の谷の合戦以降の行動がよくわかる。
https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2014/01/blog-post.html・・・横倉山中の社の看板の平家78名の氏名が明らかにされている。この名簿は出典が示されておらず、正式な資料としては扱えないとある。
補足・・・祖谷の平家屋敷の主は、後日、祖谷軍が豊臣秀吉の家臣の蜂須賀軍に敗れ、姓を”西岡”に変えたらしい。(次項参照) 当時の”姓”を調べたら、”堀川内記”というらしい。この名前が、この平家一門の看板の中にあるかを確認したが、なさそうだ。ということは、この看板の78名は、血縁関係にある平家一門(嫁に来た人を含む)と考えられる。
https://kosoowa.net/mystic-power/1632/・・・この看板の78名の内のどなたかの子孫の方が2017年10月に、横倉山を訪問したというブログ。ここに安徳帝が暮らしていたことを裏付けている。

4.祖谷

祖谷

全国に平家の落人の里がありますが、初めて祖谷を訪問した時、平家の里はここだ(ここは本物だ)と確信した。左上の写真は三好市中心部から20Kmの地点からの写真です。山肌の赤い星の位置に人家があり、北から追手が来ると、10Km位先で確実に発見できます。落人のイメージは、“かまどの煙もたてず暮らすですが、普通に生活できます。追手を発見すれば山肌を右、左どちらへ行っても祖谷の中心部です。こんな好条件の場所はないでしょう。
四国に上陸した一行は、地元有力者の協力で、どこかで1年半暮らしたようです。しかし、風の噂などで、安徳帝の存在が漏れるのを恐れ、もっと山奥に、主要メンバーだけで密かに引越したのではないだろうか。
祖谷のかづら橋と横倉宮との直線距離は、70Kmあります。

祖谷の平家屋敷のHPの記事
当家の由来
・・・安徳帝の御典医として、平家の都落ちの時、安徳帝を供奉して屋島に逃げのびた。平家滅亡の後、残党と共に祖谷に入山し、医業を地元の人に施しながら、神官も兼ねていた。
後年、蜂須賀公の阿波入国の時(※1)は反旗を翻した祖谷軍の負傷者の治療に当たった。祖谷軍は敗れ、当家も罰せられたが、後に許され(※2)当地・西岡の名主となり姓を西岡に改め現在に至る。
※1・・・1585年、秀吉の命で阿波(徳島)に入国した蜂須賀家が、祖谷軍を打ち破ったという意味だろう。
※2・・・我々は、そもそも源平合戦時の平家だと説明し、平家=安徳帝の末裔で、尊敬の念も含めて、許されたのだろうな。

余談・・・かずら橋を切り落としても、祖谷軍は負けたのだろうか。切り落とさなかったのだろうか。
かづら橋は大小7~12あったそうです。 現在のかづら橋は、ワイヤーが通っており、それをかづらで隠しているそうです。

2025/09/20追記
平知盛の気持
このプレゼン資料を作成して、どうしても気になったことがあります。一の谷の合戦で大敗して、平知盛はその後、どんな気持ちで人生を送ったのか、私の気持ちを整理しました。
一の谷の合戦で、平家の最も有名な武将が平知盛です。勇猛な武将として描かれますが、その実情はどうなのか、少し斜めから見た考察です。

家系図 平家のリーダーは清盛の嫡男・重盛でした。彼は、父清盛より早くこの世を去ります。その跡を継いだのは3男・宗盛です。宗盛は清盛の再婚相手(時子)との間にできた子供です。清盛が実権を持っている時に、嫡男・重盛が亡くなったのですから、平家のリーダーが、重盛の嫡男・維盛に引き継がれず、宗盛に引き継がれたのは、清盛も承知をしていたと考えられます。 ネットの記事によると、宗盛はリーダーの資質に欠けていたそうです。しかし、清盛亡き後の平家の衰退は、宗盛のリーダーシップの欠如だけによるものではないでしょう。しかし、弟の知盛からは、頼りない兄に見えただろうと考えられます。兄の裁量の無さが、平家衰退の原因だと考えていたと思います。

一の谷の合戦
平家の大将  清盛との関係    担当(配置先)
平宗盛・・・・3男・・・・・・・ 大和田泊の本陣
平知盛・・・・4男・・・・・・・ 東の木戸(大手軍・・・メイン部隊)
平忠度・・・・異母弟・・・・・・ 西の木戸(搦手軍・・・副・部隊)
平盛俊・・・・伊勢平氏(家来)・・ 古明泉寺(補助部隊)

さて、この配置は誰が決定したのでしょう。宗盛? 合議の結果? 知盛? 意外と二位の尼(時子)かも知れません。
宗盛が、知盛に、「おまえは東の木戸へ出陣せよ」と言えたかどうかです。知盛の人間性によると思います。命を懸けて戦うのですから、尊敬できる兄からの命令でなければ、素直には従えないでしょう。その雰囲気を察した、母・二位の尼が、リーダーシップをとったのではないでしょうか。
東の木戸の柵は、生田神社を通っていたと考えられます。さて、木戸の位置は明確ではありませんが、西国街道上(現在の大丸あるいは三宮神社前辺り)にあった可能性が高い。生田神社と西国街道の距離は、560mです。
東の木戸 京都→生田神社=76Kmですから、2日あれば到着します。知盛は大和田泊の本陣から東の木戸に出陣し、生田神社に本陣を設けて待機していたと考えられます。知盛は大和田泊の本陣内で、兄である宗盛の指示を受けてイライラするより、生田神社の陣にいる方が気持ちがスッキリしたのではないでしょうか。

平家は加東市の三草山にも陣を構えており、義経は、この陣に対して圧倒的勝利を納めます。この情報は、平家本陣にも伝わったでしょうから、いよいよ合戦だという準備は十分だったと思います。東からは、源範頼が来ており、合戦開始秒読み状態です。
源氏軍は東西から討ち入る日時を決めて、進軍してきます。平家物語によると、東の木戸で小競り合い(挨拶など)が始まり、源氏の騎馬武者が一騎、木戸内に突入し、その辺りを駆け回り、出て行ったそうです。再び、木戸内に突入して来た時、木戸を閉めて、出られないようにし、それをきっかけに範頼軍の武者達が一斉に木戸に突入したそうです。多分、最初の小競り合いから1時間程度、経過していたと考えられます。その時、突然、背後に、源義経軍が現れます。つまり、現・元町商店街の西側の入口から三宮方向に義経軍が走り込んで来ます。その時、知盛がどこにいたか分かりませんが、背後の敵に対しては、十分な戦闘状態の陣構えではなかったと考えられます。少なくとも背後からの兵に対する指示はできなかったと考えられ、義経軍に対する指示が出るまでに、知盛軍全体は、敗走し始めたと考えられます。当時の西国街道は海岸近くにあったと考えられ、パニックになった群衆(平家軍)は、北(山麓側)へ移動し始めます。 
知盛の陣 知盛の周りに人垣を作り、大きな塊となって、北の山裾に向かい、山麓を西へ向かったと考えられます。知盛は、山麓を西へ向かいながら、どこでもいいから左折して坂を下れば、大和田泊の本陣に帰れると考えたと思いますが、源氏軍はそのことを承知しており、ことごとく阻止され、現在の地名で、北野町→平野→雪の御所(清盛の屋敷跡)→夢野町2→菊水町10→旧夢野墓地前→名倉町に来ます。ここまで、8Km位です。知盛を取り囲んでいる兵士も、少しずつ削られ、あるいは逃亡する兵士もいたでしょうから、何人くらいの塊だったのか分かりません。        

逃亡ルート 東の木戸から名倉町まで、多分、3時間位、知盛はどう切り返すか考え続けたと思います。何回も左折(南下)指示したでしょう。名倉町の坂を下り直進するつもりが、前方に源氏軍がいるのを発見します。なぜ、源氏軍がいるのだ!とびっくりしたと思います。
この源氏軍は、猪俣範綱で、古明泉寺に陣を張っていた平盛俊が山を下りた所を討ち、猪俣範綱は引き続き、その場に留まっていたものです。
訳が分からないまま、部下に促されて、坂を右折し、集落内を通過したと思います。・・・この集落を通過して、現明泉寺前へ抜ける道を誰か知っていたのか不思議です。・・・この集落を抜けるための橋は1ケ所です。当時もそうだと思います。この部分でフン詰まりになり、源氏軍に追いつかれ、討たれそうになった所を、息子知章の機転で、救われ、知章は討たれますが、知盛は無事通過します。・・・平家物語では、知章が、討たれそうな父・知盛と源氏の武将の間に割って入り、知盛の逃走を助けたと書かれていますが、そんな余裕もない狭い道です。単に、知盛が前を進んでおり、後ろにいた知章が、源氏に追いつかれただけかもしれない。・・・現明泉寺前の峠を越え、坂を下り、長田神社前を通過し、大輪田泊に戻れたとのだと思います。
忠度陣 しかし、長田神社商店街を出た辺りで、1.5Km西で、平忠度(赤色楕円の範囲で戦っていた)が源氏軍と戦っていたと考えられ、その気配は感じたと思います。知盛は、応援にも行かず、状況の確認にも行かず、本陣へ逃げ帰ったのだと思います。本陣に戻った知盛はどう思ったのだろう。多分、兄・宗盛と母・二位の尼から、何があったのかと問われたが、回答できなかっただろう。

知盛の気持
①義経はどこから現れたのか?
②山麓から何度も左折し南下しようとしたが、ことごとく源氏軍に阻止された。こちらの動きを知られている。なぜ?
③名倉町で前方に源氏軍が現れた。名倉町に行くこと自体がたまたまの結果だのに、予想されていたように先回りされた。
④名倉町を右折した集落内で、息子・知章が危ないことを感じながら見捨てて逃げてきた。親として大将として情けない。
⑤長田神社商店街を出た辺りで、西の方で平忠度軍が戦っている気配を感じながら、何もせずに本陣へ逃げ帰った。
何が起きたのかも説明できず、大将として、親としてもあるまじき行動を説明できなかっただろう。
私が、HPで示したストーリーを知れば、心の整理がつき、納得できただろうが、全体のストーリーが分からず、やかましく問いただされると、苛立つばかりだっただろうと思う。何があったのか、分かるまで、考え続けたのではないだろうか。普通の太さの神経では耐えられない状況だと思う。 これ以降、知盛は歴史上の活動が報告されていない。実際にも”引きこもり状態”だったのではないだろうか。

壇ノ浦
平家は屋島の戦い(四国)の後、壇ノ浦へ移動します。私が得た情報では、壇ノ浦へ赴いた平家一族は、安徳帝(身代わり)、安徳帝の母・建礼門院(本人)、安徳帝の祖母(身代わり)、平宗盛(本人)、宗盛の長男・清宗(本人)、平知盛は参加していません。公式には参加したのかどうか分かりません。戦いの後、宗盛と清宗は捕らえられています。建礼門院も本人であることが確認されています。源氏は、安徳帝が本人だったかどうか疑ったと思いますが、重要人物がこれだけ本物であれば、丸く収めるしかなかったのかなと思います。
ネットの記事では、宗盛は自害できず(自害する勇気がなく)源氏に捕らえられたと表現されているが、自害すると、壇ノ浦に出陣した平家が本物であると主張するのが弱くなり、安徳帝が身代わりだと言われやすくなるので、平宗盛が確実に本物であることにより、安徳帝も本物だったかもしれないと思わせたかったのだと思う。
知盛が引きこもりで精神を病んでいなかったら、最後の最後に”お兄ちゃん(宗盛)が命を捨てて出陣し、自分の命を助けてくれた。良いリーダーだった。”と思ったでしょう。

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このプレゼンは3部構成で、1部=「鵯越の逆落としの真実」3部=「義経の最後の真実」があります。
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この話の続き=義経の最後の真実・・・壇ノ浦で平家を破った義経は、その後の都での振る舞いを鎌倉幕府に咎められ、弁解すらできず、藤原秀衡を頼って平泉に逃れます。秀衡亡き後、その子泰衡は鎌倉の圧力に耐えられず、義経を襲ったと言われていますが、実際には平泉を出て、所々に長期滞在しながら北海道(平取)に逃れた可能性が大きいと思います。その根拠などをまとめました。
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