義経の最後の真実

義経は平泉で死んだのかについての考察・・2024/11/04改定

1.はじめに
平家滅亡の後、京に戻った義経の行動を、鎌倉の頼朝にとがめられ、義経は弁明のため鎌倉に行ったが、面会を拒否され、奥州の藤原氏を頼って、平泉に向かった。しかし、昔、義経を歓迎してくれた当時の当主は亡くなり、新当主は、鎌倉幕府からの圧力に耐えられず、義経一行を襲った。
これが、一般的な常識です。
この続き・・・衣川の河原で、弁慶が追手の前に立ちふさがり、体中に矢を受け、義経一行をかばい、逃がした。
これが”立ち往生”の語源です。
この一連の出来事を少し掘り下げて検討した。


2.鎌倉から平泉へ

北陸路

・・・鎌倉
・・・安宅の関(小松市)
・・・平泉
・・・鼠ケ関(ねずがせき)
・・・雨晴(あめはらし)
義経は歌舞伎の勧進帳で安宅の関を通ったと言われています。安宅は、石川県小松市にあります。 ・・・吾妻鏡には、鼠ヶ関(山形県鶴岡市)で、関守にとがめられたと書かれているようで、その内容が、そのまま、歌舞伎で、安宅に置き換わったようです。
義経が腰越状を書いたのは1185年で、吾妻鏡が作成されたのは1300年頃と言われているので、正確性には問題がある。
能登半島には、義経が奥州に逃げのびる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという”義経岩”があり、地名の”雨晴”(高岡市)の語源になったと言われている場所などがある。・・・雨晴海岸は屏風のような立山連峰の手前に、海中の小島(岩)が見える風光明媚なところです。

能登から藤原氏管理下の北前船を利用したという説の学者がいる。
陸路で来たか、北前船を利用したか判断できないが、平泉に到着し、館を与えられている。
平泉に高館義経堂(たかだちぎけいどう)(平泉で義経が滞在した場所)という施設があり、そこの看板によると、鎌倉から引き返した義経は、西国に落ち、その後、畿内に潜伏し、北陸を通って平泉に向かったらしい。

義経捕縛の命令が出ると、関東の武士たちは源平合戦時の仲間で、顔を知られており、関東を通過できなかったのだろうと考えられる。

3.その後どうなるか
誰が考えても・・・ 鎌倉から、義経を討てと指示が来る → 応じなければ、鎌倉から使者が来る。義経を討つから手を貸せと言われる。・・・ 義経一行の人数(※1)が不明だが、だまし討ちにしない限り、藤原氏側にも、相当の被害が出る。私が藤原氏の当主なら、義経達に逃走資金を渡して、「お願いだから、ここから逃走してくれ」と依頼する。鎌倉からの使者には、感づかれて逃げられたと言う。
そう考えると、弁慶が衣川(北上川の支流)の河原に立って、藤原軍と華々しく戦った可能性は低いのではないか。そもそも、言われているような豪快な性格の弁慶という部下が実際にいたかどうかから怪しい。弁慶が残した大きな足跡や手形、持てるはずがない重い鐘を運んだなど、現実離れした話に登場するだけだ。

※1= 義経勢の人数
頼朝が平家打倒で挙兵した時に平泉から鎌倉入りし参戦している。歴史書により、一人で(弁慶は架空の人物か?)、20騎で、100騎でとあるが、藤原秀衡はある程度の人数を付けて送り出しただろうし彼らの大部分は源平合戦終了時に残っていたであろう。義経が平泉に着いた時点で、藤原家に戻ったかもしれないが、だまし討ちなどの行動を彼らは許さなかっただろうし、鎌倉の勢力に対しての憤りは大きかっただろう。彼らは、その後も義経と行動を共にした可能性が高い。

高館義経堂の看板には、藤原氏は、一旦は義経を保護したが、鎌倉からの圧力に耐えられず、義経は妻子とともに、ここで自害したと書かれている。

そもそも鎌倉幕府は、義経を困らせ、平泉に逃亡させたかったのではないか。国内統一を図る上で、奥州藤原氏の存在は、邪魔だったはずだ。理由もなく攻め込むより、義経を討てと手紙を送る。→色々な理由で藤原氏が実行しない→追手(援助の軍勢)を派遣するから一緒に討てと指示する。その時に、藤原氏を滅ぼす。 というストーリーだったのではないか。
→①藤原氏は、鎌倉からの使者に対し、「義経に感づかれて逃げられた」と返事したか、別人の首を準備して、「義経を討ち取った」と言った。
あるいは、
→②藤原氏は、鎌倉からの使者に対し、「義経に感づかれて逃げられた」と返事したが、使者は、「そんな返事は持って帰れない」と、別人の首を準備して持ち帰ったのではないか。
結局、この時に、奥州藤原氏は、滅亡している。

神奈川県藤沢市に義経の首洗いの井戸と首塚がある。藤沢の白旗神社の内容を紹介します。

白旗神社 義経だと言われる首は、現在の暦で6月中旬に、平泉で、清酒の樽に漬けられて、43日間かかって、鎌倉腰越海岸に運ばれて、首実験がなされたらしい。真夏であり、誰の首か判断できる状態ではなかっただろう。物語として、「金色の亀に乗って白旗川をさかのぼり、現在の白旗神社の手前にたどり着き、地元の人によって、首が洗われ、埋められた。」らしい。

井戸の前の看板には、単に、「首が白旗川を遡り・・・」と書かれているが。
・・・金色の亀の背に乗ってというのは、私の想像だが、腰越海岸に見せしめのため放置されていた首を、一定期間経過後、通常は義経の知り合い(一般的には僧侶=僧侶の着物か袈裟が黄色)が拾い上げ、鎌倉幕府の管轄外あるいは、ぎりぎり一杯のへき地に埋葬したことを示しているのではないだろうか。それが日本の文化、風習と考えられる。・・・
首洗いの井戸と首塚は、旧東海道に面した場所にあり、前を通り過ぎる人たちが手を合わせたであろう。私見ですが、頼朝の死後50年に、義経はこの神社に合祀されている。鎌倉幕府が、頼朝に気兼ねすることなく清和源氏本家に敬意を示したのではないか。首洗いの井戸と首塚が、旧東海道に面した所にあるのも、鎌倉幕府の思惑である気がする。
ただし、義経の当時は寒川神社と呼ばれており、1752年に白旗神社と改名されたらしいので、源氏の旗は白なので、源氏ゆかりの神社として白旗神社と改名されたと考えられる。

オマケの考察
1752年頃に、現在ほどの”濃さ”で”にせ首伝説”が噂されていたら、白旗神社への改名はなかったのではないだろうか。

4.義経のその後

北へ

馬=馬門(マカド)
寺=義経寺(ギケイジ)
社=義経神社
鎌倉からの追手が来ることを知った義経が自害したという記述もあるのですが、鎌倉から平泉まで移動した義経なら、さらにどこかに(北海道か秋田あたりに)逃げたという可能性が高いのではないかと思います。
青森県野辺地馬門(マカド)温泉に浸かったらしく、竜飛岬から北海道に渡ろうとしたが波が高く渡れず、仏に祈ったら、波が収まったという伝説の義経寺(ギケイジ)がある。

北海道の平取(ビラトリ)には、アイヌ(=狩猟民族)の大きなコタン(集落)があり、その人達に農耕や機織り、武術などを指導し、敬われたという伝説があり、その跡が義経神社になっています。
最終的には、若い人たちを連れて、大陸へ渡ったと書かれている。これでは嘘臭くなる。

5.北行の信ぴょう性
馬門温泉 ・・・現在は亀の井ホテルだが、そもそもは1軒屋の温泉旅館だった。北前船寄港地の奥座敷らしい。義経が逗留したのが作り話だとしたら、客寄せをしたかったのかということになるが、そもそも1軒しかないのだし、近隣に競合する温泉はないし、宣伝の必要性が低く、ここに逗留したというのは事実ではないだろうか。

義経寺、義経神社 ・・・いずれも、作り話をしてまで、人を呼ぶ必要性、その効果、環境にないと思う。
しかし、義経本人が来たとして、自ら、「私は義経だ」というかと考えれば、本人ではない人間が来たのだろうか。
義経が自害したことを疑って、誰かが探しに来たら、「義経は来なかったか?」「先日の人達が義経か!」というパターンもあるな。

義経寺に伝わる伝説 ・・・1189年、義経は藤原泰衡(藤原秀衡の嫡男)に急襲される以前に既に平泉を脱出し蝦夷へ落ち延びたとされます。藤原秀衡は子息に対して義経を大将に見立て、鎌倉(源頼朝)と対峙せよ、との遺言を残すと同時に、義経には子供達が何か不穏の動きがあれば、蝦夷地に逃げよと助言していたとされます。義経は太平洋の沿岸沿いを北上し、種差海岸(八戸市)に上陸すると、八戸市周辺に一時滞在した後に津軽半島を横断する形で三厩(みんまや)まで辿り着きました。その経路の途中には小田八幡宮やおがみ神社、新羅神社、貴船神社、善知鳥(うとう)神社など義経伝説を伝える遺跡が点在しています。

義経は巨岩の上に守り本尊である観音像を安置させ三日三晩念じ、嵐を治めたと言われており、 1667年この地を訪れた円空和尚が厩岩(まやいし)で観音像を見つけ、これが義経の守り本尊と悟り自らも観音像を彫り込み、胎内に義経の守り本尊を納め草庵を結びました。
上の青色文字の文章について、以下の可能性が考えられる。
①全て、事実である。・・・義経が実際に来ていた。円空和尚が1667-1189=478年前の観音像を見つけた。(観音像が金属製か木製かも大きな問題)
②円空和尚がここに 来たのは事実で、「義経の持っていた可能性が高い観音像を見つけた」という嘘をついた。
③誰かが、ここに義経の件で円空和尚が来たという嘘をついた。観音像を見つけたという話も嘘である。
詳細は、https://www.aotabi.com/ao/tugaruhatou/yositune.html を参照
義経北行の解説のHPは多くありますが、決定的なものを紹介します。
青森編・義経北行伝説の足跡を追う歴史ロマンあふれる旅へ・後編
https://www.nohgaku.or.jp/journey/media/hiraizumi/yoshitsune_02
(主催 公益社団法人能楽協会、独立行政法人日本芸術文化振興会、文化庁)
の中に、「義経北行伝説をGoogle Mapでみる」があり、その一部を紹介します。

北帰行伝説

A・岩手県平泉町 高館義経堂
B・岩手県一関市 観福寺
C・岩手県奥州市 弁慶屋敷跡
D・岩手県奥州市 玉前駒形神社
他6個
A・岩手県宮古市 日向日月神社
B・岩手県宮古市 判官稲荷神社
C・岩手県宮古市 横山八幡宮
D・岩手県宮古市 黒森神社
他6個
A・青森県八戸市 館越公園
B・青森県八戸市 小田八幡宮
C・青森県八戸市 長者山新羅神社
D・青森県八戸市 おがみ神社
他4個

この資料によると、義経は一目散に北へ向かったのではなく、所々で1ケ月以上、滞在している。
宮古には3年5ケ月も滞在している。
以上のストーリーで、奇異に感じた事がある。
①義経が藤原泰衡に襲われた(義経が自害した)とされるのは1189年6月で、奥州藤原氏が滅亡したのは1189年10月・・・泰衡は平泉を脱出したが、裏切りにあって、殺害されたらしい。
②義経の首は、平泉で引き渡されてから43日後に鎌倉に到着した。現在の道路で、500Km
4Km/HrX12Hr/D=48Km/D  500÷48=10.4D
③義経は竜飛岬までまっしぐらに北上したのではなく、色々寄り道し、所々で1ケ月以上、宮古には3年以上滞在しながら北上しているらしい。
これらを総合して矛盾がない状況を推察した。
話の整理
(1) 鎌倉勢は、20日間以上、平泉に留まっていたと考えられる。義経の首を入手することが主目的ではなかったと泰衡も判断した。
(2) 頼朝自ら出陣し奥州合戦があり、1189年8月に平泉に攻め込んだらしい。泰衡は平泉に火を放ち、脱出したが、(10月に、)部下の裏切りで殺された。・・・この記事にはいつ殺されたかの記述はなかったが、奥州合戦は1ケ月で決着したと書かれていた。

考察
(1) さて、6月に義経の首を引き渡した後、泰衡は平泉にいて、鎌倉の使者と共存していたのだろうか。
(2) 頼朝は、義経をかくまった(ている)奥州藤原氏討伐を申請したが、朝廷に承認されなかった。対策として、泰衡は義経を自害に追い込む、あるいは自害させたと発表するしかなかったのだろう。しかし、朝廷の許可は出ず、頼朝は無承認で出陣した。私的争いと扱われたが、1192年7月に、征夷大将軍に任じられた。
頼朝は源平合戦で勝利したが、参戦した関東の豪族たちに分け与える報酬や土地がなく、それを得るために奥州征伐をしたと考えられる。

頼朝が攻め込んだのは8月で、1ケ月で勝敗が決したらしいが、藤原氏滅亡は10月だから、その2ケ月間は、小規模な戦は続いたのだろうな。泰衡は義経と合流していた可能性が高い。
(3) 奥州も地方豪族で分割支配していただろうから、敗れた奥州の豪族や武士達の多くは、北へ逃げた可能性が高く義経と合流したのではないだろうか。
義経は宮古(平泉から北へ80Km東へ80Km)に3年5ケ月滞在していたらしい。ここが義経側の本陣で、最後の奥州勢が鎌倉勢に敗れるまで、滞在していたということではないだろうか。
(4) 義経側は、どんどん人数が多くなり、停戦合意があったか、戦いながらかわからないが、北上を続けたのではないだろうか。
馬門温泉に来た時には、奥州藤原氏の旗を立て、武装し、傷ついた人もおり、誰が見ても義経勢だと分かっただろうし、大人数で北海道に渡り切れず、津軽半島と下北半島に分かれたか、舟を調達しに行ったのではないだろうか。
(5) 平取でアイヌの人達に機織りを教えたのは、武士の家族の女性達だろうし、大人数で生活しきれず、分家して大陸へ渡ったのではないだろうか。

北海道足跡

北海道には、110ケ所程度の義経の足跡がある。特に、義経の絵馬が多く奉納されており、根強い義経信仰がある。
増毛、白老、平取、積丹、上ノ国、三笠、幌内
上ノ国の歴史案内には、奥州藤原氏滅亡後には、多くの和人が移り住んだと紹介されている。明治以降に多くの日本人が入植した他の地域と比べて、東北訛りの影響が強いと言われている。
オマケ1
頼朝は、義経を排除し、範頼も排除する。 頼朝は、兄弟と言えども信用しない、あるいは、能力的に優れていることが許せない性格に見えるが、彼らを排除したのは、北条家の意思かもしれない。頼朝のそばに、優秀な兄弟をおくことを望まなかった可能性がある。頼朝が持っていたのは、清和源氏の嫡流だという血筋だけで、関東各地の武士団と強いつながりがあるのではなく、北条氏に見放されたら、命すら危うかったのではないか。義経、範頼以外にも、兄弟がいる。阿野全成だが、頼朝の死後であるが、後継者問題で、殺害されている。義経の正妻の実家は、頼朝の長男の乳母だが、夫の武蔵の国の豪族も、義経排除時に領地没収され殺されている。

オマケ2・・・義経の正室と側室
正室=郷御前 ・・・頼朝の長男の乳母の子供。父は武蔵国の豪族。義経失脚時に領土没収され、殺された。郷御前は義経が自害した時1189年に道連れ的に亡くなった。(公式にはそれ以外の表現はない)
側室=静御前 ・・・義経を追って、①埼玉県久喜市で義経死亡を知り1189年9月に亡くなった。②宮城県宮古まできた時点で、義経が自害したことを知って1189年6月に亡くなった。③1211年に亡くなった。(これだと、北海道まで行ったのかな?)
ということは、義経が自害していなかったら、両名共、北海道まで行った可能性が高い。この時代の源氏のトップの人達の、思考、文化が理解できない。この追いつめられた状況の中で夫人+側室同伴で移動するのか。その経済力はどこから得るのだろう。藤原家は、それらの人も含めて、義経を援助したのだろうか。

オマケ3・・・義経ジンギスカン説
シーボルト
シーボルトが、その著「日本」で、新井白石「蝦夷志」等を参考に、義経=ジンギスカン説(モンゴル初代皇帝”成吉思汗”と源義経は同一人物である)を論じた。この説は、明治中期から広がり、1924年に小谷部全一郎著「成吉思汗ハ源義経也」が出版されると、反論も含めてベストセラーになった。
金史別本
1717年に刊行された「鎌倉実記」に引用された書物として「金史別本」があり、この書物自体が偽書だという意見が多くあることを承知で、その内容を紹介します。
乾隆帝(けんりゅうてい)(清の6代皇帝)は、古今図書集成中の自序において「朕の姓は源なり、義経の後裔なり。源義経の出自は清和(天皇)なり、故に国号は清なり」(原文は漢文)と書いてあるとのこと。
しかし、モンゴル=満州の貴族は日本の武士と祖先を同じくしたという「東亜同源」に基づく学術的見解は、「満蒙の征服」を目指す当時の政治情勢や国家政策に迎合したものだという見解がある。
蒙古襲来
さらに飛躍した噂として、蒙古襲来は、義経の子孫が、鎌倉幕府への恨みを晴らしに来たものだ。
少し年代を整理します。
1159年・・・義経誕生
1162年・・・ウィキペディアによるチンギス・カン誕生
1189年・・・義経が自害したとされる年
1192年・・・頼朝が征夷大将軍に
1227年・・・チンギス・カン死去
1274年・・・元寇1
1281年・・・元寇2
1717年・・・「鎌倉実記」刊行
1866年・・・シーボルト死去
1868年・・・明治元年
1924年・・・「成吉思汗ハ源義経也」出版

義経の気持
義経にとって源平合戦は、父親の敵討であり、その結果苦労した母親と自分の幼少期の恨みを晴らす機会だったと思う。一の谷の合戦で、知盛の背後を突くという作戦も、単なる思い付きではなく長期間考え抜いた結論だったと思う。しかし、周りの鎌倉武士達には、”戦の神様が乗り移った”武将に見えたのではないかだろうか。
平泉で義経の首を差し出された時、鎌倉の使者は、本当に義経は死んだのかを疑ったと思う。義経を大将にした藤原軍と戦いたくないと思っていたと思う。この首も、戦の神様の義経の作戦だと思っただろう。その確認に、20日間以上滞在していたのではないだろうか。
義経にとって、自分をはじきだした鎌倉勢への反撃とお世話になった藤原家への恩返しではあるが、平家への対抗心ほどは強いものはなかったのではないだろうか。ネット上の情報では、義経が鎌倉勢と直接戦った形跡は皆無だった。
義経は藤原軍の最高顧問程度の存在(気持)だったのではないだろうか。
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この物語(プレゼン)は3部構成で、これが最終章ですが、番外編=”義経の行動と人間性”があります。3部まで読んだ人だけが、そこへ進めます。
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