これが、一般的な常識です。 この続き・・・衣川の河原で、弁慶が追手の前に立ちふさがり、体中に矢を受け、義経一行をかばい、逃がした。 これが”立ち往生”の語源です。 この一連の出来事を少し掘り下げて検討した。
安・・・安宅の関(小松市) 平・・・平泉 鼠・・・鼠ケ関(ねずがせき) 雨・・・雨晴(あめはらし) 義経は歌舞伎の勧進帳で安宅の関を通ったと言われています。安宅は、石川県小松市にあります。 ・・・吾妻鏡には、鼠ヶ関(山形県鶴岡市)で、関守にとがめられたと書かれているようで、その内容が、そのまま、歌舞伎で、安宅に置き換わったようです。 義経が腰越状を書いたのは1185年で、吾妻鏡が作成されたのは1300年頃と言われているので、正確性には問題がある。 能登半島には、義経が奥州に逃げのびる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという”義経岩”があり、地名の”雨晴”(高岡市)の語源になったと言われている場所などがある。・・・雨晴海岸は屏風のような立山連峰の手前に、海中の小島(岩)が見える風光明媚なところです。 能登から藤原氏管理下の北前船を利用したという説の学者がいる。 陸路で来たか、北前船を利用したか判断できないが、平泉に到着し、館を与えられている。 平泉に高館義経堂(たかだちぎけいどう)(平泉で義経が滞在した場所)という施設があり、そこの看板によると、鎌倉から引き返した義経は、西国に落ち、その後、畿内に潜伏し、北陸を通って平泉に向かったらしい。 義経捕縛の命令が出ると、関東の武士たちは源平合戦時の仲間で、顔を知られており、関東を通過できなかったのだろうと考えられる。 そう考えると、弁慶が衣川(北上川の支流)の河原に立って、藤原軍と華々しく戦った可能性は低いのではないか。そもそも、言われているような豪快な性格の弁慶という部下が実際にいたかどうかから怪しい。弁慶が残した大きな足跡や手形、持てるはずがない重い鐘を運んだなど、現実離れした話に登場するだけだ。 ※1= 義経勢の人数 頼朝が平家打倒で挙兵した時に平泉から鎌倉入りし参戦している。歴史書により、一人で(弁慶は架空の人物か?)、20騎で、100騎でとあるが、藤原秀衡はある程度の人数を付けて送り出しただろうし彼らの大部分は源平合戦終了時に残っていたであろう。義経が平泉に着いた時点で、藤原家に戻ったかもしれないが、だまし討ちなどの行動を彼らは許さなかっただろうし、鎌倉の勢力に対しての憤りは大きかっただろう。彼らは、その後も義経と行動を共にした可能性が高い。 高館義経堂の看板には、藤原氏は、一旦は義経を保護したが、鎌倉からの圧力に耐えられず、義経は妻子とともに、ここで自害したと書かれている。 そもそも鎌倉幕府は、義経を困らせ、平泉に逃亡させたかったのではないか。国内統一を図る上で、奥州藤原氏の存在は、邪魔だったはずだ。理由もなく攻め込むより、義経を討てと手紙を送る。→色々な理由で藤原氏が実行しない→追手(援助の軍勢)を派遣するから一緒に討てと指示する。その時に、藤原氏を滅ぼす。 というストーリーだったのではないか。 →①藤原氏は、鎌倉からの使者に対し、「義経に感づかれて逃げられた」と返事したか、別人の首を準備して、「義経を討ち取った」と言った。 あるいは、 →②藤原氏は、鎌倉からの使者に対し、「義経に感づかれて逃げられた」と返事したが、使者は、「そんな返事は持って帰れない」と、別人の首を準備して持ち帰ったのではないか。 結局、この時に、奥州藤原氏は、滅亡している。 神奈川県藤沢市に義経の首洗いの井戸と首塚がある。藤沢の白旗神社の内容を紹介します。
・・・金色の亀の背に乗ってというのは、私の想像だが、腰越海岸に見せしめのため放置されていた首を、一定期間経過後、通常は義経の知り合い(一般的には僧侶=僧侶の着物か袈裟が黄色)が拾い上げ、鎌倉幕府の管轄外あるいは、ぎりぎり一杯のへき地に埋葬したことを示しているのではないだろうか。それが日本の文化、風習と考えられる。・・・ 首洗いの井戸と首塚は、旧東海道に面した場所にあり、前を通り過ぎる人たちが手を合わせたであろう。私見ですが、頼朝の死後50年に、義経はこの神社に合祀されている。鎌倉幕府が、頼朝に気兼ねすることなく清和源氏本家に敬意を示したのではないか。首洗いの井戸と首塚が、旧東海道に面した所にあるのも、鎌倉幕府の思惑である気がする。 ただし、義経の当時は寒川神社と呼ばれており、1752年に白旗神社と改名されたらしいので、源氏の旗は白なので、源氏ゆかりの神社として白旗神社と改名されたと考えられる。 オマケの考察 1752年頃に、現在ほどの”濃さ”で”にせ首伝説”が噂されていたら、白旗神社への改名はなかったのではないだろうか。
寺=義経寺(ギケイジ) 社=義経神社 鎌倉からの追手が来ることを知った義経が自害したという記述もあるのですが、鎌倉から平泉まで移動した義経なら、さらにどこかに(北海道か秋田あたりに)逃げたという可能性が高いのではないかと思います。 青森県野辺地馬門(マカド)温泉に浸かったらしく、竜飛岬から北海道に渡ろうとしたが波が高く渡れず、仏に祈ったら、波が収まったという伝説の義経寺(ギケイジ)がある。 北海道の平取(ビラトリ)には、アイヌ(=狩猟民族)の大きなコタン(集落)があり、その人達に農耕や機織り、武術などを指導し、敬われたという伝説があり、その跡が義経神社になっています。 最終的には、若い人たちを連れて、大陸へ渡ったと書かれている。これでは嘘臭くなる。 義経寺、義経神社 ・・・いずれも、作り話をしてまで、人を呼ぶ必要性、その効果、環境にないと思う。 しかし、義経本人が来たとして、自ら、「私は義経だ」というかと考えれば、本人ではない人間が来たのだろうか。 義経が自害したことを疑って、誰かが探しに来たら、「義経は来なかったか?」「先日の人達が義経か!」というパターンもあるな。 義経寺に伝わる伝説 ・・・1189年、義経は藤原泰衡(藤原秀衡の嫡男)に急襲される以前に既に平泉を脱出し蝦夷へ落ち延びたとされます。藤原秀衡は子息に対して義経を大将に見立て、鎌倉(源頼朝)と対峙せよ、との遺言を残すと同時に、義経には子供達が何か不穏の動きがあれば、蝦夷地に逃げよと助言していたとされます。義経は太平洋の沿岸沿いを北上し、種差海岸(八戸市)に上陸すると、八戸市周辺に一時滞在した後に津軽半島を横断する形で三厩(みんまや)まで辿り着きました。その経路の途中には小田八幡宮やおがみ神社、新羅神社、貴船神社、善知鳥(うとう)神社など義経伝説を伝える遺跡が点在しています。 義経は巨岩の上に守り本尊である観音像を安置させ三日三晩念じ、嵐を治めたと言われており、 1667年この地を訪れた円空和尚が厩岩(まやいし)で観音像を見つけ、これが義経の守り本尊と悟り自らも観音像を彫り込み、胎内に義経の守り本尊を納め草庵を結びました。 上の青色文字の文章について、以下の可能性が考えられる。 ①全て、事実である。・・・義経が実際に来ていた。円空和尚が1667-1189=478年前の観音像を見つけた。(観音像が金属製か木製かも大きな問題) ②円空和尚がここに 来たのは事実で、「義経の持っていた可能性が高い観音像を見つけた」という嘘をついた。 ③誰かが、ここに義経の件で円空和尚が来たという嘘をついた。観音像を見つけたという話も嘘である。 詳細は、https://www.aotabi.com/ao/tugaruhatou/yositune.html を参照 義経北行の解説のHPは多くありますが、決定的なものを紹介します。 青森編・義経北行伝説の足跡を追う歴史ロマンあふれる旅へ・後編 https://www.nohgaku.or.jp/journey/media/hiraizumi/yoshitsune_02 (主催 公益社団法人能楽協会、独立行政法人日本芸術文化振興会、文化庁) の中に、「義経北行伝説をGoogle Mapでみる」があり、その一部を紹介します。
B・岩手県一関市 観福寺 C・岩手県奥州市 弁慶屋敷跡 D・岩手県奥州市 玉前駒形神社 他6個 A・岩手県宮古市 日向日月神社 B・岩手県宮古市 判官稲荷神社 C・岩手県宮古市 横山八幡宮 D・岩手県宮古市 黒森神社 他6個 A・青森県八戸市 館越公園 B・青森県八戸市 小田八幡宮 C・青森県八戸市 長者山新羅神社 D・青森県八戸市 おがみ神社 他4個 この資料によると、義経は一目散に北へ向かったのではなく、所々で1ケ月以上、滞在している。 宮古には3年5ケ月も滞在している。
増毛、白老、平取、積丹、上ノ国、三笠、幌内 上ノ国の歴史案内には、奥州藤原氏滅亡後には、多くの和人が移り住んだと紹介されている。明治以降に多くの日本人が入植した他の地域と比べて、東北訛りの影響が強いと言われている。
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