義経の行動と人間性

源義経の行動から人間性を考察する・・2025/01/07改定

五条大橋の上での弁慶との立ち回り(♪♪京の五条の橋の上、大の男の弁慶は・・・♪♪)、鵯越の逆落とし、八艘飛びなど、源義経には派手な立ち回りの噂が多くある。自然とそれに相応しい人間性だと思ってしまうが、果たして、そういうイメージ通りの人間だったのだろうかを考えてみた。
1.義経誕生
1156年・・・保元の乱/源義朝と平清盛側が勝利した内乱
1159年・・・誕生/父・義朝と側室・常盤御前の間に3人の子供の3番目として誕生
1160年・・・平治の乱/父・義朝が討たれる。
勝利者側の平清盛は、義朝の子供たちの命をとらず、義経は鞍馬寺に預けられた。

2.鞍馬寺で
誰かが、
①母親は女手では子供3人を育てられず、泣く泣く牛若丸を鞍馬寺に預けた。
②清和源氏嫡流の子で、平清盛が父の仇だ。
と教えたのだろう。子供の時に読んだ絵本では、鞍馬の天狗が剣術を教えたと書いてあったので、
③いつの日か横暴極まりない平家を倒して、源氏の世を作らねばならない。
と、天狗が教えたのかな?!

3.弁慶との出会い

全体図

左図は現在の京都市の地図です。牛若丸の時代にどの通りがあって、どの通りがないのか分かりませんでした。ということで、現在の地図で説明します。
私は弁慶は架空の人物だと思っているが、仮に実在したとして、五条大橋の上で巡り合っている。少なくとも、牛若丸(義経)は五条大橋に(頻繁に)行ったのだろう。
五条大橋は、現在の五条通ではなく、松原通(現在の四条通と五条通の中間)にあった橋です。室町時代の京は、七口と言われる出入口があり、そこ以外からは出入りできない城郭都市だったはずです。牛若丸の時代も同じだろうと考えて考察を続けます。
牛若丸は鞍馬から”鞍馬口”を通り洛内に入らねばなりません。烏丸通を南下し、五条(現在の松原通)へ行ったのでしょう。その彼が、五条大橋にいたのは、平家の本拠である”六波羅”に近づきたかったのだと思います。六波羅は、当時の五条通の鴨川と東大路の間にあります。鞍馬口も五条口も賀茂川の右岸(町中側)近くにあったようです。 六波羅のすぐ近くに六道珍皇寺があり、ここがこの世とあの世の境と言われていますから、かなりのへき地だったと考えられます。鞍馬寺から当時の五条の橋まで17Kmです。

拡大図 牛若丸はチャンスがあれば清盛を討とうと考えていたのではないでしょうか。それを誰かにとがめられて、こんなところをうろうろしてはいけないと言われたのではないでしょうか。
追記・・・松原通をさらに東に行くと、清水寺です。義経記では、牛若丸と弁慶が出会ったのは五条天神社(松原通のもっと西の町中)で、2回目の立ち回りは清水の舞台上だということです。


子供の頃に読んだ物語では、薄い被り物をしていますから、女装していたのでしょう。清盛が不用意に声をかけてきたら、切り付けるつもりだったのではないでしょうか。母・常盤御前は絶世の美女だったという噂です。この頃の牛若丸はかわいい美女(美男子)で描かれていますが、大人になった以降の姿は、小柄で男前とは言えない姿です。母の美しさから考えると、確率的には美男子だったと考えられます。大人の義経は、公式には自害した後に描かれていますから、鎌倉幕府などの思惑で、不細工に描かれているのではないでしょうか。北海道には義経が描かれた絵馬が多くありますが、勇壮な美男子で描かれています。まあ、絵馬とはそういうものですが。
常盤御前・・・近衛天皇の中宮(正室)の雑仕女を決める時に、美女千人を集め、その中で一番の美女が選ばれた。
鞍馬寺に天狗が現れ、五条大橋にも誰か優しい人が現れ、こんな所に何度も居続けたら、平家に捕らえられるとさとされ、素直に従ったのでしょうから、義経は人に好かれ、他人の指導を素直に受け入れる性格だったのではないかと思います。

4.金売り吉次
金売り吉次という人がいます。”金売り”という職業を理解困難ですが、”奥州で産出した金”を売る?、”金貸し”?、実在したかどうか怪しいのですが、平泉の奥州藤原氏の配下の人間でしょう。藤原秀衡が、牛若丸に興味を持っていたのだと考えられます。可能であれば、藤原家に招いて、戦力を向上させておきたかったのかなと思います。
朝廷内に、藤原氏と親しい公家がいたはずで、そういう可能性がある人物を紹介(連絡)したのだと思います。
それに相応しい人物かどうかを誰かを派遣して、定期的に観察していたのではないでしょうか。
五条大橋で義経をたしなめたのも、そういう系統の人物かなと思います。
結果として藤原秀衡の合格点を得て、奥州に行ったのだろうと思います。
伊豆に流されたはずの頼朝も、常盤御前の子供3人のうちの2人(阿野全成と義経)が鎌倉幕府に参加していますから、清盛は彼らを強く束縛する意思はなかったのでしょう。

5.義経参戦
1174年・・・牛若丸15才/奥州藤原氏の元へ
1183年・・・倶利伽羅峠の戦い/1180年から、木曽義仲との戦いはあった。
1184年・・・一の谷の合戦/義経25才
頼朝が朝廷から平家討伐の命令を受けたのを知って、義経は鎌倉に行くのですが、考えてみれば、その前に、頼朝、木曽義仲、平家の三つ巴の時代があり、一旦は、義仲が平家を追放し、その義仲を頼朝が討ちます。この時点では、義経は参戦していません。藤原秀衡の許しを得られなかったのだと思いますが、義経にも参戦したい強い意志がなかったのだと思います。頼朝軍が義仲軍を破り、1184年に、頼朝対平家の戦いだということが明確になった時点で参戦したと考えられます。清盛一家への対抗の熱意が藤原秀衡に伝わったのだと思います。
恩義ある秀衡の了解を得られるまで、出発しなかったのは、義経の基本的な礼儀正しさ・義理堅さを示していると思います。

歴史書により、義経が一人で、20人で、100人で鎌倉入りしたと情報がまちまちなのですが、秀衡はある程度の人数を義経に与えて出発させただろうと思います。

6.一の谷の合戦
1184年・・・一の谷の合戦/義経25才
詳細は、http://atc3m.sakura.ne.jp/004ichinotani.htmlで示しましたが、義経が鵯越の急坂を下り、タイミングよく平知盛の背後を突いたことが、源氏の勝利を決定づけたと思います。
①決戦前夜、高尾山の頂上から街を見下ろし、平家の全陣容を見渡す。
②鵯越(高尾山)を下り、会下山の手前の最初の三差路で、猪俣範綱軍を名倉町に向かわす。(結果として平盛俊を討った)
③会下山の蔭で時を待ち、平知盛軍が前面の源範頼軍に集中した時に、会下山の蔭から飛び出し、知盛軍の背後を突いて、知盛軍をパニックに陥れる。 という作戦を実行し、大勝利した。
結果を聞けば、単純な作戦ですが、試行錯誤し、多分、地形などを熟知した久我興延と長時間ディスカッションした結果の産物と思います。・・・最初のプランは、「平家の陣に忍び込みたい。」だったようです。久我興延とディスカッションした結果、上記の①②③に変化したと考えられます。どのように動けば、群衆としての知盛軍がどう動くかをよく考えたプランだと思います。義経が、「私が大将だ。私が決める。」と主張するような人物だったら、このプランには至らなかったと思います。
それまで、それほど長く京に滞在していたわけではないので、奥州藤原氏に近い公家などの”つて”で久我興延を紹介してもらえたのだと思いますが、義経の人柄の良さや人に与える印象も良く、人の意見をよくきく人だったのだと思います。

7.八艘飛び
義経は壇ノ浦で、並んだ平家の舟を8艘、次から次へと飛び移り、平家を攻めたと言われています。しかし、京の山奥と奥州の山奥で育った義経は、泳げたでしょうか。泳げない人が、鎧を付けた状態で、舟から舟に乗り移る。落ちたら死ぬことが確実な行為をするでしょうか。後の世の人が、物語を面白くするために作った話だと思います。義経に、”目立ちたがり”という側面はないと思います。

8.平泉から北海道へ
公式には、藤原秀衡が亡くなった後、鎌倉からのプレッシャーに耐えられず泰衡が義経を襲った、あるいは義経が自害したと言われていますが、義経は平泉を脱出していると思います。
詳細は、http://atc3m.sakura.ne.jp/004m-hiraizumi.htmlで示しました。
鎌倉からの使者は、平泉に到着した時に、泰衡から、「義経は自害した。これがその首です。」と言って酒の入った桶に漬けられた首を差し出されるのですが、それを受け取ってから20日間以上、平泉に滞在しています。その理由が存在しないのですが、義経が本当に死んだのかを確認したかったのではないかと思います。一の谷の合戦の勝因が義経にあるのですが、関東の武士たちには、義経の強さの真の姿が理解できず、戦の神の化身のように見えており、戦いたくない相手に見えていたのだと思います。

義経がいないことを鎌倉に報告し、頼朝自身が奥州征伐に来たのだと思います。
その時に、義経は平泉の北へ80Kmさらに東へ80Kmの宮古にいた可能性が高いのですが、義経が戦いに参加したとかいう義経の存在は感じられません。

義経は、親の仇(殺された父親とそのために苦労した母親)の平家とは戦いたかったが、それ以外の相手とは戦う意思がなかったのだと思います。

9.義経の剣の腕前
義経は剣を持って戦えば強かったのか?・・・私が知った範囲で、義経は剣を抜いたことはないのではないだろうか。従って、強かったかどうかは分からない。しかし、物事を冷静に深く考えることができる人だったと思う。
義経が死んだことになった時点で、平泉を去ることができたのに、多分、宮古に滞在し、 頼朝が奥州に攻め入った時に、直接戦わなかったが、自分が宮古にいることが、逃げてくる奥州の豪族達の支えになり、鎌倉勢に対しても、ひょっとしたら戦の神の化身である義経が宮古にいるかもしれないと思わせ、必要以上に攻め込ませなかったのではないか。義経自身がそれを自覚していたのではないかと思います。

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このプレゼンは3部構成で、1部=「鵯越の逆落としの真実」、2部=「壇ノ浦の戦の真実」、3部=「義経の最後の真実」があります。
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