クラス会行事としてプレゼンを始めた理由(幹事の思い)
私は、高速道路のジャンクションが好きです。この高速道路のネットワークは、子供の頃に見たヒーロー物の世界です。これらを実現させたのは、どちらかというと親の世代が養うのに苦労し、社会インフラを不足させた我々の総力・経済力だと自負しています。そういう意味で、自分が何をしてきたかを皆さんに語って欲しい。皆さんが何をしてきたのかを聞きたい。 以下は、誰かがプレゼンをすると名乗った後の幹事とのやり取りです。 「プレゼンの時間は?」「1時間以内」「エッ! 1時間もしゃべれへんわ!」・・・さて結果は、50年越の人生、皆さん1時間には収まりません。聴衆はクラスメイトだけですが、自分の人生を語れた幸せと、仲間の人生を聞いた幸せを、かみしめてほしい。 もちろんプレゼンの内容は自分の人生には限りません。するのも自由、聞くのも自由、題材も自由な会でありたい。 |
H.Nさん/M/2025・・・義経と知盛との奇妙な縁
きっかけ 2023年に一の谷の合戦をプレゼンし、翌日に義経と知盛の足跡を市内観光しました。それで、私の人生の義経との関りは終わりのはずだったのですが、・・・・ @2024年の3Mの会で、T.Sさんから、藤沢に義経の首塚があるのを知っているかと言われました。知りませんでした。 A私は流星群を見るのが好きです。特に、8月12日のペルセウス座流星群に取りつかれています。残念ですが、我が家の前からは見えません。結構頻繁にこれを見に行きます。空気が澄んでおり、湿度が低い所=標高が高い所に行きます。2024年8月に、高知県と愛媛県の境の天狗高原(高知県津野町)に行きました。標高1355mにホテルがあります。道が狭く、行きにくい所です。どこから行こうか、近くに観光のネタはないか、GoogleMapで事前検討中に、「平知盛の墓」を見つけました。さらに、「平経盛の墓」「平資盛の墓」とうとう「安徳天皇陵墓参考地(宮内庁管轄)」まで見つけてしまいました。 これらは何かの縁だろうと考え、しつこく調査しました。ここから、平家の最後と義経の最後と2テーマ連続します。 壇ノ浦の戦いの真実 平家の里
徳島県祖谷が平家の落人の里で、かづら橋は、敵=源氏が来た時に、切り落として峡谷を渡れないようにするのだというのは、有名な話です。かづら橋の近くに平家屋敷(観光施設)があり、そのHPの記事と、上で示した横倉宮の看板の記事を参考にして、プレゼン資料を作りました。 安徳天皇の最後 一の谷の合戦で敗れた平家は、四国に渡り、屋島でも敗れ、壇ノ浦に集結し、そこでも敗れ、6才の安徳天皇は祖母(清盛の妻)に抱かれて海底に沈み平家は滅亡したというのが世間の常識ですが、ここの看板によると、壇ノ浦で海底に沈んだのは身代わりで、安徳天皇は1200年(23才)にここで亡くなったらしい。 話が長くなるので、詳細は ここをクリック 元の画面の先頭に戻る ここをクリック 義経の最後の真実 世間の常識 義経は京での行動をとがめられ、鎌倉の頼朝に謝りに行きますが、面会を拒否され、平泉に逃れます。昔、義経をかわいがってくれた藤原家の当主=秀衡が亡くなり、次の当主=泰衡は鎌倉の圧力に耐えきれず、義経一行を襲い、弁慶は衣川(北上川の支流)の河原に立ち、追手の矢を一身に受け止め、義経を逃がします。これが”仁王立ち”の語源です。その先は諸説あるのですが、もっとも過激な結論は、北海道に渡り、最終的には大陸へ渡り、チンギスハンになって、その子孫が鎌倉幕府を攻撃したというものです。 詳細をまとめました。ここから先を読むと”ネタばれ”になります。 ネタばれが嫌な人は ここをクリック ここから先は、この話の概要です。 平泉の義経 義経は高館義経堂(たかだちぎけいどう)(観光施設・有料)という館を与えられます。藤原秀衡は、泰衡に、「義経を大将に見立て、鎌倉と対峙せよ」といい、義経には「息子に異変があれば、北海道に逃げよ」と言ったらしい。 やがて、秀衡が亡くなり、泰衡は鎌倉からの義経を討てという命令に耐えられず、 @義経を襲った。 A義経は平泉を脱出した。 私はAだと思い、その続きを考察します。 義経は北海道を目指すのですが、一目散に北上したのではなく、あちこち寄り道をし、ところどころで1ケ月程度滞在したようです。 話を戻しますが、義経を討てと言っている鎌倉からの使者は、1189年6月、清酒の桶に入った義経の首を入手しています。43日後、それが鎌倉に到着しています。義経の首を入手するのが主目的のはずですから、平泉→鎌倉=500Kmで、10日あれば到着するはずです。その差の20〜30日間に何がありそうかが、重要ですが、歴史書には、そんな情報はありません。 泰衡が討たれた 1189年8月、頼朝に攻め込まれ、泰衡は平泉を脱出します。・・・鎌倉側の記録による・・・秋田県大館の家来の裏切りで討たれ、1189年10月に奥州藤原家は滅亡します。 私の大胆な推察 頼朝が攻め込んだのは1189年8月で、その奥州合戦は1ケ月で決着したらしい。奥州も各地の豪族たちで分割支配していただろうから、鎌倉勢と奥州勢の戦いは続いたと考えられる。敗れた奥州勢は、義経を追いかけたのではないだろうか。8月に攻め込まれ、1ケ月で決着し、10月に藤原氏が滅んだらしいから微妙な空白がある。義経は宮古(平泉の北80Kmさらに東へ80Km)に3年余滞在していたらしいから、敗れた奥州の豪族たちは、宮古に集結していったのではないだろうか。 もっと詳しい考察は、少し上の、「ネタばれが嫌な人は・・・ここをクリック」してください。 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
K.Kさん/M/2024・・・私の履歴書・今を生きる
はじめに 〇昨年75歳・後期高齢者となり、新しい後期高齢者医療被保険者証が配布された。 〇人生100年時代と言われるが、やはり残りは少ないと実感している。 〇晴耕雨読の生活(悠々自適として自然のままに生きる様)が理想といわれているが、現実はどうであろうか? ・1969年4月 M社に入社、研修後は照明研究所に配属。1970年の大阪万博では松下館の屋外屋根の投光照明を担当 ・1970年12月 K社に転職。原動機事業部圧縮機設計課所属 1年目は、斜流ブロワ設計 2年目以降は、多段遠心圧縮機(米国メーカーとの技術提携品) 見積、基本計画、など引き合いから受注、設計業務開始までを担う。主に石油精製の分野で客先は石油会社であった。 しかし、1970年代中盤以降は新設工事がほとんどなくなり、軸足を海外に向けていくことになった。 ・輸出用案件もはじめは国内エンジ会社経由の製品が中心。 その後、海上プラットホームに設置の天然ガス圧縮機モジュールが出始め、徐々にシフトしていく。見積・基本計画・プロジェクトコーディネートに従事 ・2001年 新たに大型のガスタービンを開発したことに伴い、その拡販営業のために転籍。 ガスタービンのはじめは国内主体であったが、その後、海外への展開も進める。 ・2007年3月 定年前であったが、58歳でK社を退職。 ・2007年4月 N社に移り、エネルギー関連の施設で、重油の汽力発電、水力発電、ガスエンジン発電、ガスタービン発電など各種発電設備の運用を最適化し収益の改善のための運例に携わる。 ・2010年 退社、電力会社の子会社など複数の会社からの業務委託を受ける。それとともに、K社系の水処理、薬品供給等を行う。 現在の日常 ・・・・2024/05/16追記・・・・ HPを一旦アップロードした後で、みなさんに紹介すべきやりとりを思い出したので紹介します。 木彫りの仏像の話の後、非常に盛り上がった。その最終の会話を紹介します。 「その仏像を残して死んだらあかんで。」 「なんで?」 「残された家族はそれを始末できひん。分類上は燃えるゴミやけど、まさか、ゴミでは出せへんよな。」 「自分で燃やすわけにもいけへんな。」 「遺言書に、わしが死んだら、この仏像を棺桶に入れて、一緒にあの世に送ってくれ! と書いといたらどうや。」 「・・・・・・」 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
T.Hさん/E/2024・・・還暦過ぎの私の活動
1.四国八十八ヶ寺お遍路 2.東京オリンピック聖火リレーランナー 3.福祉施設でのボランティア活動 1.お遍路 何故 遍路・・・ ・会社会社で流されて来たこの40年に対して、定年を機会に何か全く変わった体験をしたいと考え、思い立ったのが四国八十八ヶ所歩き遍路 ・我が家は空海の開いた真言宗 智山派の檀家 ・昔 母や叔母が団体バスで巡礼 お遍路旅の準備・・・ ・地図帳と輪袈裟以外は1番札所 霊山寺にて購入 お遍路の作法・・・ ・山門にて合掌、一礼 ・手洗いで手を清める ・本堂に参り、納札入に納札、線香・ローソクを灯し、お賽銭、数珠をすり、合掌して般若心経を唱える ・大師堂に行き 同じ要領でお参り ・納経所に行き 納経料を納めて納経帳に御朱印をいただく ・接待を受けた時は 納札を一枚差し上げる 身代わりお遍路・・・ 2番札所を越えたあたりで、「お遍路さん、お遍路さん」という声。 自分のことと思わず通り過ぎようとすると、後ろからおばあさんが小走りに駆けてくるので立ち止まったら、お茶とお賽銭袋を差し出され、「持っ て行きなされ」とおばあさん。 これがお接待かと納得すると同時に、お賽銭袋はおばあさんの身代わりと理解し、有難く頂戴した。 このお賽銭袋は結局88番札所まで持参したので、おばあさんの身代わりお遍路戦術は成功。 般若心経を理解する・・・ 焼山寺の宿坊での翌朝のお勤めで、 ご住職から般若心経の解説をいただき、これまで法要にて意味を理解できないまま何回か唱えた般若心経の意味が少し判った気分。 それまで札所では小さな声でボソボソと唱えていたが、その後の札所のお参りでは大きな声で般若心経を唱えることができるようになった。 お接待文化・・・ お接待文化にも驚きの連続。 最初のお賽銭袋から始まって、お遍路さん休息所でのお茶お菓子のお 接待。 お遍路小屋で一休みしていたらすぐ横の料理屋の仲居さんがお茶にバ ナナにパイナップルを持ってきてくれた。 走ってきたスクーターがUターンして横に止まりペットボトルのお茶を差し 出してくれたおばさん。 極め付きはトラックを止めて窓から手を出した運転手さん、「ジュースでも 買って飲みなされ」と500円玉を頂いてしまった。 本当に皆さんの接待に頭が下がりました 2.東京オリンピック聖火リレーランナー ・日時 令和3年7月5日 ・場所 茨城県 坂東市 ・走行距離 200m 3.福祉施設でのボランティア活動 ・折り紙教室・・・指のリハビリと脳の活性化 ・脳トレの本などに無い独自の頭の体操・・・各施設で 2回/月のペースで頭の体操30分、 特別な知識が無くても解ける問題、答えが出なくても考えることで脳が活性化する 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
H.Nさん/M/2023・・・鵯越の逆落としと一の谷
源平一の谷の合戦で、源義経が須磨浦公園の裏山の崖(坂)を下って平家の陣を急襲し、平家軍は敗れた、と思っていませんか? そんな訳はない。信頼性の高い情報に基づいて、義経の行動(どこを通ったか)を考察(あくまでも個人的見解です)します。 考察の根拠となる情報 @源氏の大手軍(源範頼)は、京都→西宮→福原京に進軍 A平家の大手軍(平知盛)は、これを迎え討つため、大和田泊(和田岬とハーバーランドの間)から生田の森(生田神社辺り)に出陣します。 この合戦の主戦場は、生田の森です。 B源氏の搦手軍(源義経)は、亀岡→加東市→小野→北西または西方向から福原京へ進軍します。途中、三草山(加東市)で平家の出先部隊に圧勝します。 Cその後、三木辺りで、義経は本体から少数で離脱し、→藍那→鵯越へ進軍します。 義経は、合戦前夜に高尾山山頂(403m)から、大和田泊の平家本陣の船団のかがり火、生田の森の知盛軍のかがり火、手前に雪の御所(平清盛の屋敷)、その向こうに福原京の建物を見ています。神戸市立鵯越墓園内の高尾地蔵院には、「義経・馬つなぎの松跡」(看板あり)があります。 D平知盛は、合戦開始後2時間前後で、敗走したと言われています。 E知盛は、まっすぐ本陣には戻らず、神戸市長田区の現・明泉寺前を通過しています。ここには、知盛の長男・知章の塚(墓)があります。知盛は長男知章と共に敗走し、知章が父を逃がすために犠牲になり、討ち死にしたと言われており、本陣に戻った知盛は、「どんな親が息子を見捨てて逃げようか」と言ってさめざめと泣いたと言われています。 ここまでは、ほぼ、史実です。知盛は、なぜ、直接本陣に戻らず、大回りして現・明泉寺前を通って本陣に戻ったのか。 ここからは、私の推察です。話が長くなるので、そのツヅキを含むプレゼンの内容の詳細は・・・ ここをクリック ・・・移動すると、元のページには戻れません 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
T.Mさん/M/2023・・・我が人生、アメリカ生活10年を通して
聴衆として幹事が聞いたプレゼンの感想、印象に残った部分です。 HP上は企業名を公表しないが、彼は、卒業後、国内で転職し、その企業からアメリカに派遣された。 それは、その企業の夢的な方針であり、彼の方針と合致していた。彼は30才の時、子供2人を連れて、一家でアメリカに赴任した。アメリカでも何回か転職(M&Aを含む)した。 アメリカで活動し、磨かれた人らしい、ビジュアルなプレゼンだった。 印象に残った部分 ・英会話学校、1ケ月の語学研修後、赴任時全く理解不能 ・片言英語&筆談にて、Big3への売り込み ・カルチャーショック、トップレスバーでのビジネスランチ、このままでは、ダメだ ・Big3と日系自動車メーカーとの力関係の変化 ・10年の赴任、帰国か残留かの迷い、日本人かJapanese Americanかの選択 ーーーーーーーーーーーーー ・Japan as number one(1979年 Ezra Vogel著) ・日本的経営がもてはやされていた時代にアメリカ赴任 ・アメリカは広い、国土だけでなく、人の考えも様々、σ(標準偏差)大 ・***(企業名)のようなユニークな会社での勤務経験、大変貴重、感謝 ・働き方 : 事務職は年棒制、残業という概念はない、この仕事をしていくら、就業時間も自由裁量 (朝方が多い、早朝から夕方まで) ・レイオフ、リストラ : 日常茶飯事、金曜日言い渡し月曜日から出社停止 ・高給日雇い労働者(自らそう言い聞かせる)、明日は知れぬ身、1日1日が勝負 ーーーーーーーーーーーーー ・転職 : 普通のこと、転職に伴う社会基盤が整う、転居等も比較的簡単 ・転職時の条件交渉、決して安売りはしない、対等の立場 ・一般的には、年棒2〜3割upが標準、リストラされてもしばらくは生活に困らない ・自らのセールスポイントは?(日米自動車業界、日米でのManagement経験、日本語/英語、技術ベース) ・採用時のKeyはReference、紹介者は誰か? 私の場合紹介者により決まる ・アメリカ、上司と部下の繋がりは強い、上司転職すれば部下を引っ張る 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
M.Yさん/M/2022・・・入社後の歩み
聴衆としての幹事の私の要約です。 用途例:変圧器→配電盤→分電盤(電気使用場所)の電力送電/超高層ビル用バスダクト/客船用バスダクト(発電機→配電盤をつなぐ電線)他 新幹線の速度が、220Km/Hを越えたのは、架線の改良の効果が大きい。・・・パンタグラフが架線を局部的に持ち上げ、その位置が前方へと移動して行く。あたかも弦楽器の弦が振動しているように見える。この時、この架線を、弦楽器の弦のように考えて、その固有振動数に相当する波が移動するとみなした時、パンタグラフはその波の速度を越えられないそうです。つまり、新幹線の速度を向上させるためには、弦楽器の出す音が高音になるような架線を作らねがならない。つまり、架線を細くするか、強く張るか。細くすれば、少し摩耗したら交換せねならないし、強く張れば、切れやすい。在来線の架線の引張強さ=38kNに対し、新幹線のは73kNだそうです。もちろん銅線です。 産業用トロリ(代表的なものは走行クレーン)・・・トロリ線の施工作業者確保困難になり、トロリ線→剛体トロリへの張替が推進されるだろう。 剛体電車線(1965年〜) 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
S.Kさん/2022・・・老いを受け入れ健康に
聴衆としての幹事の私の要約です。 卒業後、三菱重工に入社→三菱自動車工業に社名変更 1973年から受験勉強を始め、1975年に大阪市立大医学部へ 専門は、呼吸器内科、臨床腫瘍学、肺癌の臨床研究 定年後、社会福祉法人大阪社会医療センター勤務 あいりん/釜ヶ崎地区の医療センターです。この地区固有の医療事情があります。 生活保護者が多く、生活困難者に対する無料低額診療が必要です。単身高齢化する地域住民を医療・福祉の面から支える必要がある。結核を初め他の感染症への対応が必要。・・・以下、略 肺癌と共に30年/肺癌化学療法の過去・現在・未来 私には、内容説明困難です。登場する治療薬などを列記しておきます。読者の皆さんは、これらしい状況になったら、彼を訪ねて、相談してください。 ビンデシン、バクリタキセル、ビノレルビン、イレッサ、タルセバ、アバスチン、ザーコリ、グランノイトロジン、カイトリル、ゾフラン、イメンド 2020年簡易生命表によると、 72才男性の平均余命は14.7才です。72+14.7=86.7才まで生きられそうです。 (73才のデーターがない) 一般的なイメージの平均寿命は、年齢が0才の人の平均余命です。 日本の男子は81.64才(世界の2位/一位はスイス)です。 人間の寿命の限界は120才と考えられている。 加齢の最初の徴候は筋骨格系に現れ、眼、耳の順に変化し始める。 身体機能は30歳前でピークに達し、その後、徐々に衰退するが、たいていの機能は十分維持される。高齢期の機能低下の大半をなすのは正常な老化現象ではなく病気です。 心臓、血管、腎臓、脳などは、ストレスを受けると他の臓器よりも機能不全が起こりやすくなる。 高齢者は一般的に、年齢を重ねるとともに頑固になり、保守的傾向が強くなる。また、人に対して厳しくなるとともに、疑いの感情を抱きやすくなる。知的能力は年齢を重ねても能力が比較的保たれる。 老いを受け入れ前向きに生きることが大事である。・・・我々は73歳で老人である。/男性が歳を取れば誰でも関節の痛み、老眼、難聴、禿げ・白髪、しみ、インポテンツなどが起こる。個人差は大きいが誰にも平等に起こる。このような現象を否定するのではなく、あるがままに受け入れることが大事である。拒否は逆に老化を促進する。/老いを受け入れた上で、いつまでも前向きに、いろいろのことに好奇心を持ち続けることが重要である。そのことにより肉体的にも精神的にもいい状態になり、明るく、力強く生きていくことができる。 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
H.Nさん/M/2019・・・オーロラを見た話と発光原理
HPには、もっと鮮明なオーロラの写真がありますが、著作権侵害を考慮して、転用していません。それらを見ると、オーロラの背後に、星が見えるものが多くあります。つまり、カーテンのようなオーロラは、星よりも暗いのです。 太陽風 が地球に到達し、地磁気がバリアーとなり、地球の裏側に溜まり、そのエネルギーが大きくなり、南北両磁極に降り注ぎ、高度500から100Kmで大気の分子と衝突し、 励起状態 になった大気の分子が、元に戻る時に、決まった波長の光を放出します。それが酸素原子か窒素原子か、その現象が起きる高度により、光の波長が異なり、それらが混合された結果がオーロラとなって、見えます。しかし、その光は弱く、オーロラを見るためには、冬季の両極(60°付近)で、晴天に恵まれなければなりませんが、これが難しい。冬の日本海で天の川を見ようというのに近い。 励起状態については、量子力学の授業で教えていただいたが、当時は理解不足で、出来の悪い学生だった。卒業後50年近く経って、ようやく理解を深めた。「先生、ゴメンナサイ」 |
H.Nさん/M/2019・・・前立腺がんの話
私は血圧が高く、定期的に近所の医者で診察を受け、1回/年、血液検査をしています。ついでに、宇治市の費用負担で、前立腺がんの検査ができるとのことで、たまたま依頼したら、PSAの値が10+αで、4以上は、アウトと言われ、徳洲会で 再検査した。 PSA ・・・前立腺がんの組織が男性ホルモンを餌として、特殊なたんぱく質を吐き出す。その血中濃度で、前立腺がんを発見できる。この値が大きい人は必ずガンではないが、ガンの人は必ず大きいそうです。 MRI検査 したが、周りに転移しているようには見えないが、生体検査をして、組織を取り出してみないと分からない。と言われた。 生体検査 ・・・肛門から超音波センサー付の器具を挿入し、直腸の壁ごとボーリングし、棒状の組織をとりだし、組織検査をする。ものすごく痛いことで有名な検査 検査結果・・・10本の検体の内、2mmの組織がガンで、2%がガンだったと言われた。 多分、直径1〜2mmで長さ10mmの組織を10個取り出したのだろう。 追加検査・・・前立腺がんは骨に転移しやすいので、「骨シンチ」検査とCT検査を実施した。 骨シンチ検査 ・・・人の骨は、日々、その組織が壊され、新しく再生されているそうです。この再生率に反応する薬剤を放射化し、体に注射し、これが全身に回った頃に、外側からセンサーで検査した。 検査結果・・・ガンの影響と判断される異常はなかったが、30才の頃に、サッカーボールが強く当たり、1ケ月くらい痛かった部分に損傷があることが分かった。 治療方法・・・3通りあり、それぞれのリスクなどの説明を受け、放射線治療を選択した。 (1) ホルモン治療・・・女性ホルモンを投与し、男性ホルモンを抑える。 (2) 外科手術・・・前立腺を除去する。 (3) 放射線治療・・・放射線を照射し、前立腺組織を焼く。 放射線治療を選択した。ガンの部分だけに照射するのかと思ったが、輪切り状に上から順に全部を焼き切るものだった。 放射線照射前に、6ケ月間、ホルモン治療した。・・・おへその付近に女性ホルモン剤を注射し、毎日1錠、錠剤を飲む。(15,000円/月)・・・4ケ月後に、前立腺肥大が小さくなり、PSAは0.4になった。 放射線治療 使用する装置・・・Novalis(ドイツ製)・・・レーザー光による位置決めとCT装置と高エネルギーX線照射装置がセットされた装置 ベッドの上に私の体に合わせた型紙のような固定具を作り、毎回同じ姿勢を維持しやすくし、おへそから下に、マジックペンで、十文字の線を引いておき、それにレーザー光を合わせて座標原点を出す。そのマジックの線を消さないように、入浴禁止と言われた。 私の治療の予約は、10:30〜45だった。その1時間前に必ず排便・排尿し、コップ一杯の水を飲まねばならない。1ケ月強、これを維持するのは苦しい(難しい) 照射が始まって、小便と小便の間隔が、どんどん短くなっていった。どんどん小便が出にくくなっていった。出始めに、チョロチョロと明らかに血が混じることがあった。 照射は、10秒前後/回X(7〜10)回/日X38日 セッティングなどの時間を含めて、15分/日 5回/週 ×7.6週 結果とその後・・・PSAの値は、治療中はホルモン剤の影響で0.4だったが、その後、じわじわと1.3まで上昇した。現在、1回/6ケ月、経過観察中。 元の画面の先頭に戻る ここをクリック |
K.Sさん/M/2019・・・卒業後の歩みと土壌改良
・『明石高専との連携』・・・澤先生の研究費として寄付。 学会等発表(発表者:高専、コトー)、土木学会、地盤工学会、国土交通省内技術発表。 発表論文を営業資料として活用 ・淀川のスーパー堤防で実績、関東へ進出 ・大阪府補助金(700万円)を使い、見学会を計画 ・万能土質改良機を開発当初は、土を混合して堤防の土を造ることは考えられていなかった。実績が増えるにつれ、普通に設計採用されるようになり、工事量が増える。 ・万能土質改良機の実績*スーパー堤防事業・・・淀川、大和川、荒川、 *緊急災害特別事業・・・円山川、鬼怒川、筑後川、北上川 ・当初は独占状態であったが、競合相手が出てきて、施工単価が下がり、利益が減少する。 ・工事量の増加に伴い、機械も台数が必要となり、借り入れをして機械を増やす(14台)。 ・会社の規模(資金力)よりも市場規模が大きくなりすぎた。 ・その後、M&Aを経て、オクノコトーとして活動中 |